快楽の小盛り

めっきり食が細くなった。細くなったといえどもよく食べるほうではあるが、一時期と比べれば細くなった。まず大盛りが怖い。食べ切ったあとの、上がった血糖値がもたらすだるさが恐ろしい。金を払って倦怠感を買うようなものではないか。同じ理由で「大盛り無料」にも心が躍らなくなった。今日も定食屋でご飯を小盛りにしたが随分大人になったなと思う。

つぎに揚げ物が心のうちの、上座の部分から退いた。じゅわっと揚がった茶色い唐揚げやコロッケや、尻尾を赤く照り光らせた立派なエビフライやらが目の前にワッと現れたときの喜びは今もかわらないが、食べ進めるうちに顔が曇る。胃のあたりに壺があって、揚げ物を飲み込むに従って液体の油がシトシト滴り溜まっていくような気持ちがする。じんわりと憂鬱になって損だ。揚げ物との顔合わせの喜びを我慢できる賢い日はできるだけ揚げ物は控えめにしている。

暑い日の甘い炭酸がだめになった。汗が吹き出て乾かない湿った晴れの日の、口の中まで干上がってべたつくような心地のときに流し込むコーラにある、砂糖の味が気になるようになった。最近は暑い日に炭酸水を飲むようになり次いで炭酸の刺激を疎んで麦茶を飲むようになったが、水の味について一言申すようになるまでは数年を要さないだろう。

穏やかさの波は口の中ばかりでなく耳にも来た。一人で歩くときに音楽を聴くことがめっきり減った。リズムと歌詞が一緒になっておれの心を弾ませにかかるのが面倒になって、今はラジオを聴くでもなく聴き流している。音楽と違って人の話はこちらの心を拘束してこないから楽だ。リズムが流れているうちは曲が終わるまで次々音がやってくることが決まっている。回転寿司で自在に皿を選びたい心があり、コース料理を楽しみたい心がある。聴き流すラジオは回転寿司だ。イカばかり取るような聴き方をしている。

快楽は多すぎると良くない。量ばかりでなく質も控えめでよろしい。蕎麦を食べようとふらっと入った店に天丼があれば、できればセットにしないほうがよい。あるいは小盛りにしたほうがよい。それも天丼でなく木の葉丼あたりでいい。パーティーをやるのは楽しいが毎日ハレをやる気概はもはやおれにはない。行き着く先は散歩と冷奴だろう。快楽の小盛りである。

いまおれは無職をやっている。日がな一日ぶらぶらしていて暇だ。積極的に暇を潰しにかかると金がかかる。そういうときに小盛りの快楽はありがたい。

暇を持て余したときにつまむ快楽の一環として、おれの身の回りにある「快楽の小盛り」を思いついたときに書きとめておくことを思いついた。これはその序文である。何を書こうかというこころづもりは無いし、面倒を言い訳にこれ以降ぱたりと筆を置くことすらあり得る。書くはいいが、「日々のちいさな幸せを大切に…」とでも言いたげなポエムのなりそこないをひり出す趣味もない。兼好法師の真似事が、無印良品の生皮を被って生臭いような文章はいくらでもある。もうなくていい。おれがそのレミングスの列の最後尾に並ばずに済むかは定かではない。

曇天である。煙草も尽きた。これ以上書く気もないしあとはどのようにして暇を潰せばいいかしらん。

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