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「ゆとりちゃん文芸バザール テーマ“酒”」出展 『鉛直譚』より改訂して掲載

Ⅰ.

 酒の味が元来ハレの側に属するからして、下戸の自分が永世ケの岸に取り残されることは必定であった。
 ハレの彼岸に渡る六文銭がないということは、寝ても覚めても自らの理性的たる部分と顔を合わせて生きていかねばならないということであり、つまりは酔うことがないということである。酔えば愉快だ。少なくとも愉快に見える。愉快でありたいと前向きにあろうとしている気持のあらわれである。これが見れば見るほどにうらやましくなるから、酒の席では酔漢の倍ほどに大声をあげて騒ぐことにしているが、口をついて出るのはどうでんぐり返ってみても頭の中を通って出てきた言葉で、酔った人の胎から出た文章とは似ても似つかぬのが厄介だ。

 酔った人間のうらやましさはその軽やかさにある。酒を飲むということは代役を頼むようなもので、何を言っても酒が言わせたのだからけしからん、とて自分は桟敷席で大きな顔をしている。自分の責任を酒の側に打遣ってしまえるから当人は気楽である。その気楽が更に酒を飲ます。
その点下戸はえらいもので、常に壇上で脂汗をかいて自分をやっている。三千世界の世間様を客席に据えて、一世一代の檜舞台を日がな一日やっているようなものだから骨が折れる。客が冷えても温まっても自分の責任だから、静まった客席を舞台袖から見て「いやあ、奴の演技はまずいね」なんていうことを言う暇がない。おれも自分から降りて客席から自分が愉快にやっているのを眺めてみたいものだが、法治国家大日本国では酩酊の手段を酒以外に求めようとするとこれが難しい。いつでも手錠の鎖の音が聞こえる心地がする。

 ヒップホップを聴く趣味を持ってからは大麻に憧れた。調べるうちにLSDに憧れ、南米の植物を煮出したアワヤスカに憧れる頃には、どれにも宿酔に似た症状がありキャパシティを越えると胃の中を吐き下すことを知って憧れるのをやめてしまった。おれは度数3%の酒で二度嘔吐する人間である。より強いものを摂ってどうして尊厳を保っていられようか。頭痛でも風邪でも、体調の不良とあってはすぐに吐き戻す体質である。

 その点で煙草は良かった。酩酊はないが、気楽に舞台を降りる感覚のある嗜好品である。吸い始めたはたち過ぎのころから、世が分煙の方向に傾いたのが尚よい。喫煙所や喫煙席はいつでも人目を憚るような位置にあって、狭い場所で人はこそこそしている。全く舞台裏といった心地がする。舞台裏では人間はひとりである。ひとりで居て、世の関心事は自分とちいさな火のみであるという顔をして口から白い息を出す。通人が刺身に清酒を合わせ、肉に葡萄酒を合わせるような格好で、気分や場所に応じて煙草を変えるのもまたよろしい。白いキャスターを吸い、パイプに桃山を詰め、ふんぞり返って水煙草をふかして大通ぶった。そのくせ銘柄ごとの味の違いには一言も持たないのだから大層な半可通である。

 種々の煙草のうちで、自分の手で巻くものは殊更に良い。何より安い。尋常の紙巻煙草の安いものに、更に輪をかけて安い。歩きながら袋を開けて歪な形に巻いたやつをちゃちなライターで火をつけると、浪人が瓢箪から酒を飲むような無軌道を感じて気分が良い。腰を据えて筒につくった紙の中の、葉の密度をととのえてやったり、カリフォルニア人がやったりするような紡錘形に巻いたりするのも、酒場の主人が綺麗な道具で酒を振るような心持がして愉快だ。気候や気分によって煙草葉の味は変えた。薄荷の味がするものを夏に、重いバニラの香がするものを冬にやるのもよい。首筋に香水を降るようにして思い出に匂をつけるんだと友達に嘯いたことがある。大変に恥ずかしい記憶である。

Ⅱ.

 舞台から降りたひとの話を読んだことがあった。舞台上の人の話は世に溢れているからして、舞台の下の人の話は貴重である。その人はホームレスであった。口に糊する手立を失い、諸々の曲折を経て、地面の上に起臥する人になった。やることもないから、日がな一日座っている。
 座って往来を見ると行き交う人は常に用のある人である。多くは仕事に向かい、帰路を急ぎ、ともだちに会いに行く人である。用事があるということは役割のある人で、三千世界を相手取って舞台の上に立つ資格のある人だから、当人もそのような顔をしている。翻ってホームレスをやるひとは用事のない人で、往来する役者を眺めるものだから自然に舞台と客席の線が引かれることになる。その書き手はそのようにして、ホームレスをやると舞台を降りて芝居を眺めるような心境になったと書いていた。番号こそないが椅子がある。椅子は常に一人掛けである。舞台の下の人になるといくら犇き合ってもひとりで座っていることになる。

 またあるときに、覚醒剤をやったひとの話を読んだことがあった。四度の脳梗塞を経て、血圧の数字は莫大な値を指すという。降圧剤のほかに薬はやめてしまった。「覚醒剤は」と始めた話に曰く、「爽快感を得る薬ではないんです」と。意外な言葉である。
 血管からその透明な(透明であるかはおれは知る由がない、実際見れば虹色をしていても不思議ではない)薬を注射すると、感じるのは恐ろしいまでの孤独であるという。その孤独の中に身を置きたくなってまた打つ。打って孤独になる。

 酒を飲む人の心持については想像するより他ないが、酒が自分の操縦桿を握って御客様相手に宜しくやっているのを舞台袖で見るときは愉快に見えて非常な孤独を感じるのではないかと思う。酔って楽しくなった自分を覚めて見るとき、振り返ってその舞台に自分が居ないことを口惜しく思うのではないかと思って止まない。代役を立てるのは気楽だ。その代わり、公演の冷めるのも盛況も全くの無関係である。そこに肉感のある苦楽はないから一種の疎外がある。地面の上に起臥する人の寂しさである。

 おれはいちど、舞台の上から降りたことがあった。京都での仕事をやめて、失業保険をもらいながらぶらぶらと、平日の昼間から金もないのに市中を歩いた時に、確かに自分のからだが舞台の上にないのを自覚した。世間の一切の愉快事が自分に関係のない出来事であると思った。代わりに寂しい頭から短歌が山ほど沸いた。文章がどんどん出てきた。覚醒剤の作用によるものの、ホームレスになった人が感じるものの、万分の一ほどの孤独であれだけのものが沸くのだからおもしろい。同じ孤独を酒が持ってきてくれるのなら、三十余年を素面で過ごした自分が酒に憧れるのも自然のことであると御承知頂けることと思う。

 身を崩すほどに酒を飲む人が退廃の美を感ぜしむのも、赤い顔の裏に大変な孤独を抱えていると見えるからに他ならない。非常な速度で酒を飲み、さすればここらで、とばかりに高座から降りてしまうとそのあとはうす暗いところで宴を見ている。酔いつぶれて転がっている姿などはその最たるもので、責任と役割をどさりと肩から降ろして憩う姿は、「苦労のない 穴へ さようなら」と評された死の美しさに近い。疑うならば#shibuyameltdownを見よ。西洋の墓に刻まれる”REST IN PEACE”の美がある。

 いまだかつて死んだこともなければ、酔ったこともないから、このように好きなことを考えながら酒宴を見ている。

Ⅲ.

 しらない人の酒席に混じるのが好きだ。一遍にふたつもいかさまができる。

 まず一つに、皆んな酒を飲んでいるから物の綾目がぼんやりしている。尋常の神経ならば口元の動かないような冗談でも、酒の席では神通力を得たが如く効く。聞く側は大いに物事を楽しまんとして酒を飲むうえに、言う側は冗談のためによく回る脳味噌を保っているのだから道理である。第二に、こちらが酒の席にあって全くの新顔であるから、まずもって登場そのものが新鮮である。顔馴染の輪に突撃してくる人間がいればそれだけでもう面白がってくれるのだからたまらない。

 酒の席でまれびとをやるのは慣れてしまえば至極簡単で、お互いがお互いにとってお客様であるから余程のことをしなければ大変な仲違いもない。歩道の白線を踏んで歩くようなかたちで少しだけ失礼をやれば、「なんだ貴様は」といった具合にごく初歩の露悪ができる。露悪を見た人間同士は既に友人である。小一時間ほどわあわあやったあと、お互い名前も知らぬままにそれぞれの席に戻る。戻った後は他人である。

 おれは愉快な人間であると思われたいがためにこのいかさまを何度かやった。今日もそれをやるだろうという予感がある。おそらくは二度会わぬひとと会うのは愉快だ。有難くもご来場頂いた御客様と自分とは知らぬ人間であるという意味で、ある部分において全くの対等である。つまり、どちらも過去の方向に首を向けた時に一切の白紙であり、自分という重荷を下ろした状態でまれびとの役をやればよろしい。ほんとうの自分自身は舞台袖で控えていれば事もなく会話は進む。

 文章においても、インターネットに書く文章は誰が読んでいるか分からない。おれはまったくのまれびとである。漱石の真似をして、普段口にも出さないことを書いている。
 書き散らす文章の効用は酒に似て、ものを書いているという役割に仮託して、ほんとうの自分は寝そべっている。あとは物書きの自分がなにものかを形にしてくれる。シュルレアリスムの徒がやる、自動筆記の寂しさを素面で行うのがインターネットに書く文章で、つまり酒の飲めないおれが、想像上の酒の効用を味わおうとして書いている。

Ⅳ. 鉛の短歌

傘がない、そういう曲があったと思う 舟がないのとどちらが悲しい

台本をもらってないまま本番の夢、そのように通勤電車

手荷物を置くための台を手荷物はYogiboみたいに恐れているらし

銃声をスネア代わりに使う曲⇔楽器の代わりに銃がある街

9mmで、撃って殺して。そのあとに十代みたいに煙草を吸って。

シンナーの熟れた林檎のにおいがして抱かれに行く時つける香水

虹色の農薬飲みたい あーこのひともうだめなんだってなりたい

ひとりのときポケットの中に実包があってにぎるとぬるくなってく

「喋る前に飲む」錆びる前に撃ちたい鉛の短歌

「しんどいことはもうありません 楽しいのももうないのんが寂しいですね」←死

交差点が回転寿司屋だとしたらシーサラダだけの街で育った

白い鳥は木の上に立つとよく目立ちそのようにして駅に居る人

二人称すら定まらないひとなのに1500円借りていいですか

ファインド・ミー 見つけにきてよいまおれは水にちかくて見ても見れない


(2024年2月23日(金・祝) 18:00〜23:00 「ゆとりちゃん文芸バザール テーマ“酒”」出展 『鉛直譚』より改訂して掲載)


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