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快楽の小盛り 03:しらないものを食う

食事は欲を満たす。
満たしたい欲はいわゆる食欲に限らない。腹が減るから食う、栄養のために食うをやるには人間は文化を作りすぎた。今や心と舌を喜ばせるために食うものが大半である。食わねば力が出ない、食わねばじきに衰弱の影が来る、というわけでもないのにわれわれは食わでものものを食っている。遊園地で車のついた箱に乗り、登らでもの坂を登り下らでもの坂を下る遊びを思いついてわあきゃあ言っている種が我々である。何の不思議もない。

全く動物的の本能から離れて「うまい」のためにものを食うとき、腹を満たすための食事では満ちない部分が満ちる。満ちてはじめて今まで自分のうちに空白があったことを知る。人がプロメテウスの恩恵に預かって肉を炙って食うのを知った時、滴る脂が舌の両側に回り込んであたたかく染み込んだ時、人類は不可逆の進化を遂げたと言ってもよい。一度見つけた空白は感化し難い。以来、人間はうまいものを方々探し回って海に出た。山を越えた。人を殺した。胡椒を見つけた時にいよいよ財を投げ打つことを覚え、金持ちはうまいもので肥え太るものだ、となった。

翻って我々である。大方のうまいものは手の届くところにやってくるようになり、胡椒だの肉桂だのは小遣い程度の値段にまで降りてきた。貿易と物流のために、うまいものを食うのはさほどの贅沢ではなくなっている。金持ちは未だ大枚をはたいてうまいものを食っているが、我々が普段食っているもののY軸を上に登った程度のもので、大航海時代に彼らがやったような、史上かつて金持ち以外食ったことのないものを食っているわけではない。金持ちの晩餐への憧れは消えてしまった。金持ちの側でもそれを了解しているのか、食う場所を摩天楼の上に置いてみたり、食うものを提供する人間を丁寧にしたりしている。おれはといえば無職であるからして、食い物に何万円も溶かす道楽はしたくてもできない。昼間の銭湯と煙草の代金を払った合間にいくばくかの千円札で飯を食う日々である。

大盛りの快楽は金持ちに任せるとして、食うもので満たす小盛りの快楽がおれにもある。おれの臓腑には珍しい食いものを入れるための穴があり、人があまり食わないようなものをたびたびそこに入れて喜んでいる。好事家が「ゲテモノ」や「ジビエ」というような趣味の、その端のほうをシロアリめいて齧りながら喜んでいる。

高校生の時にどこかで肉を食った。ワニかカンガルーかの二択で、どちらを食ったかは覚えていない。大学を出たか出ないか、ごにょごにょやっているときに猪を食った。いつだったか、皇居に這入る用事があったが、帰りに新宿の「朝起ち」という店で豚の子宮を食べた。内臓は見かけたら食べるようにしている。へんなものを食うには中華屋が適す。目にも音にも、日本語は申し訳程度に添えてあるようなやつがいい。おれが知るうちでは、大阪は難波心斎橋にある「茶房8」は知ったものも知らないものも色々あって良い。

この前は友達に連れられて今里の「紫禁城」に行った。すみません、と戸をくぐった途端に「あるな」という気配がする。小さな茶房8といった風情で、壁に一面の簡体字とハングルが眩しい。写真から見るに、太刀魚を甘辛く煮たようなのがある。浅学ながら太刀魚とは刺身を引くか塩焼きにして食うものだと思っていたから驚いた。りんごを飴煮にしたやつの隣に、さも「拙者もデザートでござい」といった顔で卵を飴煮にしたやつが並んでいる。「すごいな」同行の友達に言うとそいつはにやりとした。連れてくるべき人間を連れてきた、という顔をしている。

メニューを捲るうちに、果たしてというべきか、あるべきものがあった。蚕のサナギである。

蚕のサナギに御目通りをしたのはここが初めてではない。前述の茶房8で蠍を食わんとした時に、それが品切れであったがために代替として炒め物にしたやつを頼んだことがある。

引用元:https://twitter.com/tasopepper/status/1346062758958174208?s=21


山盛りの素揚げが来た。山盛りの、素揚げだけが大きな皿に乗ってやってきた。友人と我と3人で卓を囲んで、フィルムケースに収まらぬほどの大きさのやつが、皿にうず高く盛られたのを眺めた。カブトムシを裏返しにした腹の、蛇腹に畳まれた構造を持っている。それが油に黒光りして転がっている。南洋の島にマダガスカルというのがあって、そこに自生するという大きな油虫を思い出す光り方であった。勇気を出して3人で食べた。海老の尻尾めいたキチン質の殻をぷちんと突き破ると、レバーに似た中身がねとりと口に塗りたくられる。3人で不思議に雄弁になった。3人とも一様に「うまい、うまいが…」とばかり言ってその後が続かない。味の説明と感想を次々口に出して、耳と口から自分を安心させようとする無意識の活動ではないかと振り返って思う。
見た目ほどの恐ろしさは味には無い。高々、海老とレバーである。見た目と量が良くなかった。一年前に食ったが、あの卓を一緒に囲んだ2人は未だに戦友である。

その蚕がここにもある。折角の機会である。おれは一年を経て前回の蚕の衝撃を忘れてしまっているし、同行の友人は前に東京で昆虫食のレストランに行ったことがある。興味にまかせて注文してしまった。

名前も読めない甘い飲み物を飲んで待っていると、来た。記憶の通り油で黒く光っている。小ぶりのサナギを正中線で二つに割って、断面には衣をつけた。セロリと見える野菜の茎と、唐辛子を混ぜて火を通した炒め物である。前よりはこう、料理の顔をしてやってきた。食われるべき装いをしてやってきた。口にはこぶと、揚がった衣の効もあってかサクサクと気味が良い。揚げた海老も、揚げたレバーも食ったことがある。未知の藪からおれを脅かすものは口の中になかった。

photo by manimanium

肝試しにふたつある。夜分に全くの無人の山中を歩いて、暗闇に霊的の存在を見出して楽しむものと、遊園地のお化け屋敷で人間が考えた怪異を楽しむものである。例えるなら、茶房8で食う蚕は前者であり、紫禁城で食う蚕が後者にあたる。知らない世界をずんずん切り開いて、危険を顧みない冒険者は茶房8にゆくとよいが、最後まで歩き通すことのできる安全を確保したまま恐怖をひと舐めしてみたい者は紫禁城に行くとよろしい。

ふたりでうまいうまいと言いながら食ったが箸をすすめるうちに失速する運びとなった。味や心配でなく、中華料理につきものの油に負けた結果である。油をやっつけてくれそうな、鳥の足の軟骨をレモンで煮込んだ冷たい皿を箸休めにしてようやく食べ切ることができた。

未知のものを食うと、舌と手に加えて頭がよく動く。寿司生臭さの合間にガリを食うような、ハンバーグの油の合間に芋を食うような、紋切り型の対策が我の辞書の中にないためである。また、知らないものを食う恐怖に打ち勝つためにどうにか既知のものに口中のものを近づけんとする働きがあるがためである。原始、未知の食物は即ちある確率で死を招いた。食品衛生法のある今の世でも脳は原始のものを持ってきているから、いかに意識が頑張っても未知のものを食うのは怖い。自然、知らないものを知っているものにして安心しようという力が働く。

このあとおれは妙に疲れて友人宅で横になり、ばんめしにお好み焼きを食って、銭湯に行って帰った。お好み焼きはソースの味がして、頭を使わずにうまいと食えた。ジェットコースターの後に地面に降り立つような安心があった。サウナの後の、水風呂のような清浄があった。これを「快楽の小盛り」に書こうと思って、一週間も筆を取る気が起こらないとは思いながら湯上りの風を浴びて電車に乗って帰った。

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