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思い出すことなど

Ⅰ.
仕事で出張になると、商品を持っていかないといけない事情から北海道でも九州でも車で行ってしまう。乗用車の後部に大物小物を満載して、隣に上司を乗せておれがハンドルを握る。
九州のある自動車道を走ると隣に座っている上司が決まって、「なぁ〇〇ちゃん、桜塚やっくんって知ってるか?」とやる。おれが「あぁそんなんいましたねぇ」とかなんとか返すと、上司は間の抜けた声色で「このへんで交通事故で死んだんや」などと言うので、おれは「このへんやったんですねぇ」とか「事故多いんですねぇ」とかそういったことを返す。そのあとは車を飛ばしながら桜塚やっくんと、彼が「怪僧ラスプーチン」というタイトルのカヴァー曲を出したこと、ラスプーチンが胃酸の少ない異常体質だったおかげで青酸カリが効かなかったこと、ラスプーチンが異常なまでの巨根だったことなどぐらいまでを一揃えにして思い出して、車線変更をする頃には忘れてしまう。
そんなわけで、おれは年に何回かゼロ年代に人気を博した女装芸人のその後と死因をわずかながら思い出す機会に与る。桜塚やっくんの方もまさかロシアの巨根とセットで思い出されるとは思ってもいるまい。

Ⅱ.
友達に死んだ女装がいる。これは正しくない文章だが、そのままの感想を言葉にすればこうなる。
まず、実際に会ったのは1,2回のみなので彼のことを「友達」と言えるかは判断が難しい。おれの方でそう思っていても向こうはそう思っていないかもしれない。今や聞くすべもない。次に、死んだ人間のことを「いる」と表現するのは(恐らく)文法的に間違っている。これは実感の問題からこう書いたまでで、前述のように会う機会に恵まれなかったために彼がこの世からいなくなったということがリアリティを持って迫って来ず、たとえば彼の「東京に住んでいる」「社会人の」「音楽が好きな」といった属性に「死んでいる」がひとつ追加されただけのような心持がしている。数度しかあったことがないうえに最近Twitterでも見なくなった。話題に上ることも少ない。死んでいることとの関連性はわからない。

Ⅲ.
人と関わると「不意に思い出すこと」「不意に思い出されること」の両方の機会が生ずる。「その人を思い出す」ということは「その人を思う」ことだから、思い出される側は(その裏返しとして今の今まで忘れられていたとしても)嬉しい。街で趣味のいいものを見つけた知り合いなんかが「これ見て〇〇さん思い出したんスよ」なんて言いながら連絡をよこしたときのおれの顔ったらない。

Ⅳ.
小学2年生ぐらいのときに転校した同級生がいた。いよいよ去るという日にわれわれに向けて手紙など書いてみせたりしたのだが、そこに「小学校5年生になったら帰ってくるからそれまで待っててくれ」といった旨のことが書いてあった。7歳だか8歳だかの子どもにとって3年後は遠い未来である。ついぞ彼のことは忘れてしまった。5年生になった時に帰ってきたかも覚えていない。ただ転校したことと、「帰ってくる」と言ったことを今思い出して文字にしたばかりのことである。
不意に思い出されるにしても先に挙げた例とは毛色が違う。伝えるべくもないが本人に教えて得になるだろうか。

Ⅴ.
いつだったか、家族でテレビを見ているときに誰かが「なんで古いモンばっか持て囃されるんやろうなぁ」と言った。ギャルに片足突っ込んで今は年相応に落ち着いている妹が即座に「新しいモンは次々生まれてくるけど、古いモンはもうそれ以上ないからちゃう」と答えたので舌を巻いた。こいつは時にどきりとするほど的を射た発言をするので侮れない。ナイフとフォークの左右が覚えられなかった時にも妹が「武器は右やろ」と言ったのでそれ以降悩むことはなくなった。大人になってから折に触れて西洋式のカトラリーで食事するたびに「武器は右」と心の中で唱える。古い慣習はもう生まれないので一度覚えればそれきりである。

Ⅵ.
世が動いて新しい慣習が次々生まれるようになった。流行り病は息が長そうでいつまでも流行っているような心持ちがする。新しい慣習が新しいうちはやる事為す事すべてが新鮮である。おかげで新しい思い出に事欠かない。古い思い出は待てど暮らせど増えないしあくびのひとつでもする間に消えでもしないかとヒヤヒヤする。古い慣習が古いまま増えないように、死人のTwitterが止まったままであるように古い思い出は新しく生まれないままじっとしている。したがって貴重である。些細なものでもこの世から消えるときには惜しい。気にも留めていなかった店に閉店を惜しむコメントが押し寄せるのを見よ。
それは世の軽薄さをわらう隙であるととともに、たとえばおれがこの世から消えるときにも誰かがそれを惜しむであろうことを予感させるものである。誰かがおれのことを思い出すであろうことを予期させるものである。誰かとは友達であったりするだろうし、1,2度しか会ったことのない知り合いやもう会わなくなった同級生であったりするだろうし、あるいはなんの接点もないと思っていた誰かかもしれない。それはわからない。


Ⅶ.
ひとつわかることがある。
おまえはおれを思い出す。
これを読んでいるおまえはおれを思い出す。

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