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ロシアにおける中世の民主主義。ノヴゴロド大帝と民主主義の崩壊。

ミチェル・コイ(Michael Koy subscriptions@medium.com)は米国のMedium Daily Digestで、ノヴゴロド大帝と民主主義の崩壊(Novgorod the Great and the Fall of a Democracy)を公開した。

過去数世紀のロシアの歴史は、政治や文化の多くの側面で独裁と自由の戦いであったと言えるが、ロシア史の奥深くに、中世ロシアの古典的な民主共和国であるノヴゴロド(Novgorod)を発見することができる。

全市民の選挙、民主的な価値観、そして海運の都。古典アテネでもルネサンス・ベニスでもなく、中世のノヴゴロドは雑然とした権力の空白に成立し、イタリア共和国に似たルネサンス風の都市国家として栄えた後、伝統的な民主主義の装いの下に没落していったのである。

この魅力的な国家は、後のロシアの姿とは鮮やかに異なるものでありながら、ロシアの歴史と文化に間違いなく結びついていたため、特定することは難しい。

https://time-az.com/main/detail/76408

起源(Origins)
10世紀、現在のウクライナの首都キエフ(Kyiv)に本拠を置くキエフ・ルス(Kievan Rus)がロシアとウクライナの地域を支配していた。この巨大な連合体の郊外にノヴゴロドがあり、やがてこの地域の最大都市のひとつとなった。キエフの王侯の子弟が直接統治するようになった。しかし、12世紀にはキエフ・ルスは衰退し、ノヴゴロドは事実上独立した。

貿易・通商(Trade and Commerce)
ノヴゴロドは、スカンジナビアのヴァイキング(Scandinavian Vikings )と東ローマ帝国のコンスタンティノープル(Eastern Romans in their city of Constantinople)の街を結ぶヴォルホフ川(Volkhov River)に面していた。

長い川沿いには港や都市が点在して、ノヴゴロドは南北の交易の入口であった。

東方イスラムの銀、西方ヨーロッパの布、そして中央ローマからもたらされた貴重な絹や香辛料など、ノヴゴロドの市場は世界各地からの贅沢品で埋め尽くされたのである。

キエフやモスクワの商人たちが建築技術やキリスト教を北部の都市に持ち帰ったため、ノヴゴロドは国際貿易の拠点として、やがてロシアの伝統的な建築と融合していったのである。

その後、ノヴゴロドは初期のロシア建築を残す数少ない都市のひとつとなり、伝統的な修道院や木造家屋が街中に点在していた。

How Democracy Falls(民主主義はいかにして崩壊したか)
ノヴゴロドは富裕な地主や貴族の中心地であったが、寡頭政治は初期の民主主義と結合していた。
ヴェチェ(Veche)は共和国のすべての自由市民を構成し、この大きな組織が街の中心部に集まって大司教を選出し、貴族からなる行政府は、貴族会議の長として機能した。

さらに、共和国のトップは王子であったが、実際には街の中心部に住むこともできず、遠く離れた郊外に住んできたので、この役割は象徴的な肩書きに過ぎなかった。

共和国の自由な政治体制は文学にも反映され、農民から富裕層までが宗教や商取引に関する膨大な原稿を書き、ノヴゴロドの女性たちもその著作に手を貸した。

ノヴゴロドは、ヴェチェなどの民主的な制度により、古代アテネの直接民主制とルネサンス期のイタリアの貴族支配の共和制を結ぶ交差点であり、北ロシアの辺境の厳しい土地で繁栄するための独自の政治環境を作り上げたのである。

しかし、14世紀には伝統的な民主主義の亀裂が入り始め、次の世紀には共和制とその民主的制度が破壊されることになった。

最大の問題は、貴族の権力が強まり、世論を動かして自分たちの主張を通すようになったことである。
一方、地方の農民や事業主は富裕層に飲み込まれ、農奴制の青写真を描くようになった。

Final Fall and Cultural Relevance(最終的な没落と文化的な関連)
1471年07月14日のシェルドンの戦い(Battle of Sheldon in 1471)でムスコヴィー軍(forces of Muscovy)がノヴゴロド軍を破り、ノヴゴロドは外交政策の主導権を握らざるを得なくなったのである。
共和国は西側諸国から支援を得ようとしたが、結局1478年、台頭するムスコヴィーに征服され、ヴェチェは粉砕され、ムスコヴィー派が旧共和国の政権に取って代わった。

共和国は滅びたが、その思想は生き続けている。

19世紀後半、モスクワやサンクトペテルブルクの多くの思想家や詩人が、ロシア革命前にノヴゴロドにインスピレーションを求めた。

また、ノヴゴロドは今日も独立した価値観と文化を保ちながら、共和制の後の時代、帝政時代に形成されたより大きなロシアのアイデンティティと結びついている。

しかし、このプライドが今も生き続けているようだ。

そして、絶対的な差が、多くの人を殺している。

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