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世界第2位のコンピューターメーカーはなぜ倒産したのか?

米国のMedium Daily Digestの「History-of-Yesterday」でバリー・シルヴァースティーン(Barry Silverstein)は2022年04月01日に、1957年に設立されたDEC(Digital Equipment Corporation/デジタル・イクイップメント・コーポレーション)は、1990年代に倒産するまでは、巨大な企業であったと報告した。

コンピュータ・ビジネスに変化はつきものだが、その証拠に、「DEC」の名で知られるデジタル・イクイップメント・コーポレーション(Digital Equipment Corporation)がある。DECを知らない人は、1988年に売上高US$115億で世界第2位のコンピュータ会社だったことを知ると、驚くかもしれない。

その10年後、「DEC」は買収され、その名はすっかり忘れ去られてしまった。

今、インテル(Intel)が、第2の「DEC」になるという噂もある。

一時、IBMも第2の「DEC」として噂になった。

私は毎年、日本IBMのスポンサーで「コンピュータ年表」と、NTTデータのスポンサーで「情報通信年表」を作っていた。

バリー・シルヴァースティーンは、ここでは、デジタル・イクイップメント・コーポレーションの華麗なる転身と凋落の物語を紹介すると報告した。

https://time-az.com/main/detail/76567

新しいコンピューティング・コンセプト。

1950年代、業務用コンピューターは誕生したばかりだった。
IBM(International Business Machines Corporation)社は、1950年代初頭にメインフレームコンピューターを発表し、1960年代には大型コンピューター市場を席巻していた。しかし、MIT(Massachusetts Institute of Technology/マサチューセッツ工科大学)のエンジニア、ケン・オルセン(Ken Olsen)は違う考えを持っていた。MITのリンカーン研究所(MIT’s Lincoln Laboratory)で同僚のハーランド・アンダーソン(Harland Anderson)と一緒に働いていたオルセンは、バッチ処理で動くメインフレームとは対照的に、対話型の計算機の可能性を見出していた。

そこでオルセンとアンダーソンは、科学者や研究者のために手頃な価格の対話型コンピュータを製造する会社を設立することを思いついたのである。

オルセンとアンダーソン、そしてオルセンの弟のスタン・オルセン(Stan Olsen)は、この会社を「デジタル・コンピュータ社(Digital Computer Corporation)」と呼ぼうとしていた。しかし、1957年のビジネスプランを読んだアドバイザーが、「投資家が臆病だから、コンピュータという言葉は使わないでほしい。」と提案したのだ。

そこで、「デジタル・イクイップメント・コーポレーション(Digital Equipment Corporation)」と名付け、電子部品の販売に特化することにした。また、マサチューセッツ州メイナード(Maynard, Massachusetts)の古い工場を改造した建物で、コストパフォーマンスを重視する姿勢をアピールした。

1958年には、コンピュータの心臓部である回路基板に取り付けるモジュール(電子部品)を生産するまでになった。

ミニコンピュータの誕生。

1960年、DECは同社初のコンピュータを市場に送り出したが、まだコンピュータと呼ぶには慎重で、「PDP(Programmable Data Processor/プログラマブル・データ・プロセッサ)」と名付けられた。

当時、ほとんどのコンピューターがUS$100万以上した中で、PDP-1はUS$12万という価格であった。PDP-1は、「ミニコンピュータ」と呼ばれる全く新しい分野のコンピュータを市場に送り出した。

DECは1965年にPDP-8を発売した。

DECの技術は非常に進んでおり、PDP-8はUS$18,500という信じられないような低価格で販売されながら、それ以前のモデルよりも劇的に改善された。PDP-8は、商業的に成功した最初のミニコンピュータとなり、1968年にはデジタル・イクイップメント・コーポレーションはミニコンピュータのトップメーカーとなった。

他には、DECの技術者たちが1968年に設立したマサチューセッツ州のライバル会社データジェネラル(Data General)社ができた。

PDP-8に続き、1970年にはさらに成功したPDP-11が発売され、DECの収益拡大を加速させる主力ミニコンピュータとなった。1974年には、デジタル・イクイップメント・コーポレーションはフォーチュン500社の一角を占めるまでになった。

1978年、DECはIBMとの直接対決を恐れず、VAX(Virtual Address eXtension)と呼ばれる32ビットのスーパーコンピュータ製品群を開発した。VAXラインは、IBMの大型コンピュータよりも手頃な価格でパワーがあり、サイズも小さいことから、「IBMキラー」となるべく設計された。

その後10年間、DECはPDP-11の生産をサポートしながら、MicroVAXを含むVAXの改良と新バージョンのリリースを行った。VAXとPDPの両ラインは、1980年代に入ってからのDECの爆発的な成長を支えた。

1980年代、デジタル・イクイップメント・コーポレーションは、誰もが認めるテクノロジーのスーパースターとなったのである。

DECUS(Digital Equipment Corporation User Society/デジタル・イクイップメント・コーポレーション・ユーザー・ソサエティ)は、単一のコンピューター・ユーザーとしては世界最大のソサエティとなった。

DECUSは、「DECWorld」と呼ばれる大規模な国際見本市である。1988年には、デジタル・イクイップメント・コーポレーションは、売上高US$115億、全世界で12万人以上の従業員を抱える、IBMに次ぐコンピュータ大企業となった。

1970年代、パーソナルコンピューターは目新しいものであったが、来るべきコンピューティングの波のバニュガード(vanuguard)であった。アップル(Apple)社が「Apple II」を発売して成功したのに続き、IBM社は1981年に「IBM PC」を発売した。

マイクロソフト社のソフトウエアOSが普及すると、PCクローン市場は一気に拡大した。

ビジネス用マイクロコンピュータが登場した1980年代後半、ケン・オルセンはまだデジタル・イクイップメント・コーポレーションのCEOであった。

DECは、「レインボー(Rainbow)」を発売してマイクロコンピュータ市場に参入しようとしたが、不成功に終わった製品であった。

同社は、衰退していくミニコンピュータ市場に投資しすぎていた。デジタル・イクイップメント社も、ケン・オルセン自身も、マイクロコンピュータの重要性を認識したのは、かなり遅すぎたというのが、もっぱらの評判である。

このほかにも誤算はあった。例えば、DEC社は、データセンター事業でIBM社と真っ向から対決することを決めており、そのためには、場所、設備、スタッフなどに大きな投資をしなければならなかった。

また、DECは、VAXシステムを守るために、オープン・アーキテクチャーのサポートを打ち切ろうとしたが、これは、忠実な顧客には不評であった。

さらに、DECは、コンピュータの部品をすべて自社で生産する垂直統合戦略をとっていたため、より敏捷な挑戦者と競争することが難しくなっていた。

1991年、デジタル・イクイップメントは、初めて通年で赤字を計上し、報告した。

1992年には、ケン・オルセンがCEOを辞任した。その後も赤字は続いた。1997年、インテル社がDEC社のマイクロプロセッサー工場を買収した。1998年01月26日に、DECはCOMPAQ Computer Corp.に買収された。皮肉なことに、COMPAQはDECを破滅に追い込んだPCクローンの1つである。デジタル・イクイップメント・コーポレーションは消滅したのである。

しかし、DECが情報技術に与えた影響は計り知れない。

イーサネット(Ethernet)の商用実装を担当した。

コンピュータ言語Cの最初のバージョンとUNIXオペレーティングシステムは、DECのPDPシリーズで動作した。

OpenVMSなど、DECのオペレーティングシステムの多くが広く使われた。

DECnetと呼ばれる独自のネットワークは、最初のピアツーピアネットワーク(P2Pnet)の標準の1つになった。

DECは、複数のマシンを1つのマシンとして動作させるクラスタリングを発明した。

革新的で強力な64ビットマイクロプロセッサ「Alpha」シリーズを開発した。

DECは、オンライン・コラボレーション・ソフトウェア(online collaboration software/グループウェア/groupware)の最初の例の1つであるNotes-11を開発した。

世界初の総合インターネット検索エンジン「アルタビスタ(AltaVista)」は、グーグル(Google)が登場するよりもずっと前にDECが開発した。

デジタル・イクイップメント・コーポレーションはもう存在しないかもしれないが、ハードウェア、ソフトウェア、ネットワークにおける同社の革新的な技術は、コンピューティングを永遠に変えた。

そして、自ら開発した技術で溺れて死んだ。

実は、私は4年前に気管支肺炎になり、自ら飲んだ水で溺れて死にかけた。

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