イギリスの画家ウィリアム・ターナーが死去。

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ArtDailyは2020年12月19日に、イギリス・ロマン主義の画家(English Romantic painter)、版画制作者、および水彩画家で、植民地主義的で、イマジネーション豊かな景色、および荒天で、しばしば暴力的な海の絵画で知られ、 J. M. W. ターナー(J. M. W. Turner)として、最近ではWilliam Turnerとして知られているジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーRA(Joseph Mallord William Turner RA/1775 - 1851)は、彼と一緒に暮らし、スタジオアシスタントとして働いていたかつら職人で、理髪師であった父親ウィリアム・ターナー(William Turner/1745 - 1829)を除いて、親しい友人はほとんどいなかった。

母親はメアリー・マロード・ターナー(Mary Mallord Turner (マーシャル/Marshall)/1739 - 1804)

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兄弟は、メアリー・アン・ターナー(Mary Anne Turner/1778 - 1783)がいたが3歳で死んでいる。

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パートナーとしては、ソフィア・キャロライン・ターナー(Sophia Caroline Turner/1799 - ?)とサラ・ダービー・ターナー(Sarah Danby. Turner/1766 - 1861)()がいた。

https://time-az.com/main/detail/62586

サラ・ダービー・ターナーは、ジョン・ダービー(John Danby/1757 - 1798)の妻で、
サラの子供が、ルイザ・クリスティナ・ダンビー(Louisa Christiana Danby/1790 - 1792)、
ルイザ・メアリー・ダンビー(Louisa Mary Danby/1792 - 1959)、
生まれて1日に死んだヨハン・ジョーバート・ダンビー(Johan Jaubert Danby/1793 - 1793)、
1歳で死んだキャロライン・ダンビー(Caroline Danby/1795 - 1796)、
マーセラ・ダンビー(Marcella Danby/1796 - 1863)、
キャロライン・メリッサ・ニクソン(Caroline Melissa Nixon/1797 - 1857)、
テレサ・シモンドソン(Teresa Symondson/1799 - 1867)がいた。

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ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年4月23日に、ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイドン・レーン21番地(21 Maiden Lane, Covent Garden, London, Middlesex, England (United Kingdom)で、かつら職人で、理髪師であったウィリアム・ターナーとメアリー・マロード・ターナー(Mary Mallord Turner(Marshall)/1739 - 1804)の子としてグレートブリテン王国のロンドンで生まれ、13歳で風景画家の基礎を勉強し、すでに絵を売っていたとも言われている。1年ほどして、1789年に14歳でロイヤル・アカデミー附属美術学校(Royal Academy of Arts, RA)に入学した。1797年にはロイヤル・アカデミーに油彩画を初出品し、1799年に24歳の若さでロイヤル・アカデミー準会員となり、1802年に27歳の時にはロイヤル・アカデミー正会員となっている。

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父親ウィリアム・ターナーは、1783年に娘で、ターナーの妹マリー・アンヌ・ターナー(Mary Anne Turner/1778- 1783)が亡くなったことで、妻メアリー・マロード・ターナーの精神病の病状が悪化し、その闘いを通して家族を支えた。

兄弟には、妹のヘレン・ターナー(Helen Turner)とマリー・アンヌ・ターナーがいたという情報もあるが、定かではない。

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ターナーは、生涯結婚をしなかったが、彼の家政婦サラ・ダンビー(Sarah Danby/1766 - 1861)との間に、2人の娘イヴリーヌ(Eveline/1801–1874)とジョージアナーナ(Georgiana/1811–1843)が居たという情報もあるが、定かではない。

ターナーは、2番目の婦人が亡くなった後、ソフィア・キャロライン・ブース(Sophia Caroline Booth/1798 - 1875)と関係を築き、チェルシーの彼女の家で「ミスター・ブース(Mr Booth)」として約18年間暮らしていた。

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1804年に自らオーナーのギャラリーをオープンしたが、1829年に父親が死去すると、年をとるにつれて悲観的で不機嫌になり、うつ病に見舞われ、その後、彼の見通しが悪化し、そのギャラリーも晩年には荒廃し、無視され、1845年から不法占拠で、健康状態の悪い生活を送り、76歳のとき、1851年12月19日にロンドンのチェルシー(Cheyne Walk)にある歴史的な道路チェイニー・ウォーク(Cheyne Walk)のソフィア・キャロライン・ブースの家で、コレラで死去し、ロンドンのセント・ポール大聖堂(Saint Paul's Cathedral, London)に埋葬されたと報告した。

ロンドンのセント・ポール大聖堂は、第2次世界大戦で爆撃され、一時閉鎖された。

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アントニー・ファン・ダイク卿が1641年12月09日に、死去すすると、彼は旧セント・ポール大聖堂(Old St. Paul's Cathedral)に埋葬され、国王は彼を記念して記念碑を建立したが、1666年、ロンドン大火により旧セント・ポール大聖堂が焼失し、ヴァン・ダイクの墓も焼失した。

彼の名前は、地下聖堂にある火災で失われた重要な墓を列挙した近代的な記念碑に記載されている。

彼の最後の言葉は「太陽は神(The Sun is God)」だったと伝えられているが、はっきりしたことはわかっていない。

ターナーの友人で、建築家フィリップ・ハードウィック(Philip Hardwick/1792–1870)の息子トーマス・ハードウィック(Thomas Hardwick)が葬儀の手配を担当し、ターナーを知っていた人に、彼が亡くなったということを知らせた。

今回公開された絵画は、ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーが1834年から1835年に描いた「1834年10月16日に、君主と民衆家の燃焼(The Burning of the Houses of Lords and Commons, October 16, 1834)」で、キャンパスに油彩で描かれている。

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オリジナルは、フィラデルフィア美術館(Philadelphia Museum of Art)で、ジョン・ハワード・マクファデン・コレクション(The John Howard McFadden Collection)として保存されている。

ロンドンのコヴェント・ガーデンのメイドン・レーン21番地(21 Maiden Lane, Covent Garden, London)の緯度、経度
51°30'37.8"N 0°07'25.2"W
または、
51.510503, -0.123672

ロンドンのチェルシー(Cheyne Walk)にある歴史的な道路チェイニー・ウォーク(Cheyne Walk)の緯度、経度
51°28'58.0"N 0°10'13.8"W
または、
51.482783, -0.170492

ロンドンのセント・ポール大聖堂(Saint Paul's Cathedral, London)の緯度、経度。
51°30'49.8"N 0°05'54.1"W
または、
51.513844, -0.098350

2011-10-22---第2次世界大戦以来初めて、セント・ポールが閉鎖された!
1940-12-29---ロンドンは最も破壊的な空襲を受けた。
1859-10-17---アメリカの画家チルド・ハッサムが生まれた。
1839-10-30---アングロ-フレンチ・アーティストのアルフレッド・シスレーが生まれた。
1837-03-31---イギリスの画家ジョン・コンスタブルが死去した。
1697-12-02---セント・ポール大聖堂が再建された。
1641-12-09---フランドル生まれのイギリスの画家アントニー・ファン・ダイクが死去した。

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