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フランスの彫刻家で、デザイナーのルネ・ラリックが生まれた。

ArtDailyは2022年04月06日に、19世紀〜20世紀のガラスアート、香水ボトル、花びん、宝石類、シャンデリア、時計、および自動車フード装飾品などで知られているフランスのガラス・デザイナーであったルネ・ジュール・ラリック(René Jules Lalique/René Lalique/1860 - 1945)は、1860年04月06日に、ペルシャ人で、宝石と金の細工師であったオーギュスト・ジュールス・ラリック(Auguste Jules Lalique/1831 - 1875)とオリンペ・ベルテルミー(Olympe Berthellemy/1835 - 1906)の子としてフランスのシャンパーニュ地方マルヌ県アイ村(Ay, Marne)で生まれ、パリで育ったと報告した。

ペルシャといえば、メソポタミア時代の宝石と金の細工師の国だった。

代々の家系が、しっかりしている。

ルネ・ラリックの祖父はBrice Lalique(Brice Lalique/1798 - 1875)で、祖母はマリー・ジャンヌ・ラリック(Marie Jeanne Lalique/婚前はアドネット/Adnet/1804 - 1882)

祖祖父(Claude Lalique/1764 - 1843)で、祖祖母はマリー・ブリジット・ラリック(Marie Brigitte Lalique/1768 - 1838)。

https://time-az.com/main/detail/63869

ルネ・ラリックには、5歳で死んだ姉の(Marie Louise Lalique/1857 - 1858)がいた。

ルネ・ラリックの妻はアリス・ラリック(Alice Lalique/婚前はレドルー/Ledru/1870 - 1909)で、娘はスザンヌ・ルネ・ハヴィランド(Suzanne Renée Haviland/婚前はレドルー/Ledru/1892 - 1989)、息子はマルク・アンドレ・ラリック(Marc André Lalique/1900 - 1977)がいた。

また、ルネ・ラリックには、別れた妻マリー・ルイーズ・ラリック(Marie Louise Lalique/1869 - ?)がいて、2人の間には、娘のジョーゼット・ラリック(Georgette Lalique/1888 - 1910)がいた。

さらにパートナーとして、マリー・ジャンヌ・アネール(Marie Jeanne Anère/1899 - 1992)がいて、2人の間にも子供が2人いるが、生存中のため、プライバシーは公開していない。

さらに、さらに別のパートナーとして、クローディン・ジュリエット・ル・メスニル(Claudine Juliette Le Mesnil/1870 - 1960)がいて、2人の間にも生存中子供とルネ・クロード・ル・メスニル(René Claude Le Mesnil/1907 - 1981)が居た。

ルネ・ラリックは、アール・ヌーヴォーとアール・デコの両時代にわたって活躍した作家で、初期は、アール・ヌーヴォー様式の金細工師、宝飾デザイナーとして活躍した。

当時から、ガラスをパーツに用いていたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎてからであった。

1897年に、レジオンドヌール勲章(L'ordre national de la légion d'honneur)を受章し、1900年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1900/Expo 1900)では宝飾作品が大きな注目を集めた。

1892年頃から宝飾品の素材の一部にガラスを取り入れて、50歳を過ぎてから、ガラス工場の経営者に転身した。

カルティエ(Cartier SA)などの著名な宝飾店にも作品を提供し、当時の高名な女優サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt)も顧客であった。

今回公開された作品の写真は、花瓶René Lalique, vase Trois figures d'hommesである。

ルネ・ラリックの作品は、日本では、東京都庭園美術館でみることができる。

ルネ・ラリック略年表

1860年04月06日フランス北部シャンパーニュ地方のアイに生まれる。

1876年パリ装飾美術学校入学と同時に、貴金属細工師ルイ・オーコックのもとに技法を学ぶ。

1878年から1880年までイギリスに滞在し、サイデナム・カレッジ(en)で学んだ。

1882年フリーランスの宝飾デザイナーとなり、パリでカルティエ、デタップ、ブシュロン等の高級宝飾店に原型やデザインを提供しはじめる。

1885年にはパリのヴァンドーム広場(Place Vendôme)にアトリエを構えた。

1886年デタップ商会より工房を買い取り宝飾商として独立、このころからガラスを宝飾に取り入れ始め、貴石に頼らない芸術性の高いデザインを確立していく。

1897年フランス最高峰の勲章レジオンドヌールを授与される。

1900年パリ万国博覧会に宝飾作品を出品し、大好評を博す。

1902年パリ郊外のクレールフォンテーヌに小さなガラス工場を借り4人のガラス職人を雇いシール・ペルジュ(蝋型)によるガラス作品を作りはじめる。

1903年ロンドンのグラフトンギャラリーで初めての個展を開催パリのヴァンドーム広場に店舗を開く。

1908年フランソワ・コティーの依頼で香水瓶のデザインを手がけるパリの東方コーム・ラ・ヴィルにガラス工場を借りる。

1912年ヴァンドーム広場の店でガラス作品だけの展覧会を開催、以降ガラス工芸品の製造に専念する。

1913年コーム・ラ・ヴィルの工場を買い取り、多くの香水瓶を製作する。

1914年第一次世界大戦勃発。

1920年アルザス地方のヴィンゲン・シュル・モデールにガラス工場を建設(同工場はラリック社として現在まで続く)。

1925年パリの現代装飾・工業美術国際博覧会に自らのパビリオンを持ち、花器から噴水にいたる広範囲のガラス作品を出品し大成功をおさめる、またジャガーやロールスロイス等のカーマスコットを手がけたのもこの頃である。

1927年豪華客船「イル・ド・フランス」の一等船客食堂の内装に参加。

1929年ルネ・プールとの協力で豪華寝台列車「プルコン・エクスプレス」の一等客車及び食堂車の内装を手がける。

1931年朝香宮邸(現在の東京都庭園美術館)設計にともない正面玄関扉やダイニングルームの天井燈などを製作。

1933年パリ装飾美術館で大規模な回顧展が開かれる。

1935年大西洋横断豪華客船「ノルマンディー号」の一等船客食堂の内装に参加。パリのロワイヤル通りに新しい店を開く。

1940年06月、ドイツ軍のパリ占領によりアルザスの工場を閉鎖する。

1945年05月05日没(ラリック、85歳)

フランスのシャンパーニュ地方マルヌ県アイ村(Ay, Marne)の緯度、経度。

49°03'12.0"N 4°00'16.2"E

または、

49.053344, 4.004500

1848-02-18---米国のステンドグラスアーティストのルイス・コンフォード・ティファニーが生まれた。

1846-05-04---アール・ヌーヴォーを代表するフランスのガラス工芸家エミール・ガレが生まれた。


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