スイス系アメリカ人マーク・トビーが生まれた。

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ArtDailyは2020年12月11日に、アメリカの画家であったマーク・ジョージ・トビー(Mark George Tobey/Mark Tobey/1890 - 1976)は、ウィスコンシン州センタービル(Centerville, Wisconsin)で、家を建てる大工のジョージ・ベーカー・トビー(George Baker Tobey,)と、その妻エマ・ジェーン・クリーブランド(Emma Jane Cleveland)の子の中で、末っ子として1890年12月11日に生まれたと報告した。

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1893年には、家族がシカゴに移住している。

彼は1906年から1908年までシカゴ美術館で独学で学び。
ノースウエスト学校でも、ほとんど独学で美術を学んだ。

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1911年、彼はニューヨーク市に移り、 マッコールズ(McCall's)のファッション・イラストレーターとして働き、ハンサムでカリスマ性のあるトビーは、瞬く間に芸術家の仲間入りを果たし、彼の最初の個展は、1917年にマンハッタンの下部にあるクノドラー&カンパニー(Knoedler&Company)で開催され、社交界の人物を木炭で緻密に描写した。しかし、ファッション・アイコンに惹かれていたにもかかわらず、トビーの最大の関心事は、形と内容の関係であり、彼の芸術に対する考え方は、初期の段階でも規則に縛られていなかった。
1918年にトビーは、「もし自分の絵画人生でもう何もしないとしたら、形を壊して......空間の中の形にあった光を解放する(If I never do another thing in my painting life, I will smash form . . . and to give the light that was in the form in space a release)」と宣言した。しかし、この構成上の目標は1930年代半ばまで達成されなかった。ニューヨークのポートレートアーティストとして、ハリル・ギブラン(Khalil Gibran)の仲間バハジーのジュリエット・トンプソン(Baháʼí Juliet Thompson)と接触し、セッション中、トビーはいくつかのバハージー文学(Baháʼí literature)を読み、 グリーン・エーカー(Green Acre)への招待を受け入れ、そこでイスラム教シーア派から分かれたバーブ教(بابی ها/Babi)の後継宗教バハイ(Bahá'í)への信仰と禅に由来しているバハージー信仰(Baháʼí faith)へ1918年に改宗した。

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彼は、アジアの神秘主義に強い関心を示し、その精神をキャンバスに翻訳して表した。

それは、ニューヨークの抽象表現主義の先駆的位置を占める存在であった。

トビーは、1920年代から1930年代にかけて、さまざまな影響を受けながら過ごし、短い結婚生活の後、トビーはシアトルに移り住み、その後40年間、断続的に生活を続けた。自活のためにシアトルのコーニッシュ・スクールでデッサンと絵画を教えていたが、誰が見ても彼は刺激的な指導者だった。

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バハージーは、イランでサイイド=アリー=ムハンマド(سید علی محمد/سيد علي محمد/Seyyid Ali Muhammed/1819 - 1850)が1844年に始めたシーア派イスラムの分派で、彼は自らを救世主(Mahdi/マフディーという)であり、また神と人々を仲介するバーブ(Báb/門の意味)であると称し、男女平等、階級差別の廃止、貧富の差の解消などを説き、民衆の支持を受けた。

1848年から52年にかけて、カージャール朝(قاجاریه/Qajarsdynasty/ガージャーリヤン)は、バハージーを危険な反体制集団として弾圧した。

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サイイド=アリー=ムハンマドを捕らえ処刑し、信徒も約4万人が虐殺された。

こうしてバハージーは弾圧されたが、その思想はその後も分裂しながらも民衆の中に残っていく。

その一つ、弟子のバハー・ウッラー(بهاء الله/Bahā' Allāh/もともとの名はミールザー・ホセイン・アリー/Mīrzā Hoseyn Alī/1817 - 1892)が始めた穏健なバハージーは、現在も世界中に広がっている。

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シアトルで彼は、芸術家のテング・クエ(Teng Kuei)から中国の筆画の生きた線を紹介され、空間の中の固体の形だけではなく、物体が透明で多次元的でダイナミックな芸術であるキュビスムの可能性について、新たな洞察を得た。また、マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)にも影響を受け、光が質量と空隙の両方を透過することで、形と空間の境界を取り除くだけでなく、形が空間を移動する際に内在するエネルギーを表現していた。ルネッサンス期の伝統的なイリュージョニズムにおける、2次元の平面上に3次元の物体がしっかりと描かれているという基本的な2元論の侵食は、トービイの「形の粉砕」という探求の核心をなすものであった。

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彼の作品の動機は、多くの抽象表現主義者とは哲学的に異なるが、アジアの書道に触発された彼の密に構造化された作品は抽象的な表現主義に似ていた。

1925年、トビーはパリに移り、2年間にわたってヨーロッパ中東を広く旅した。この時期の彼の作品は具象的なものであったが、キュビスムや表現主義の実験や、ヨーロッパの様々な歴史的形態の影響が反映されていた。

1931年から1938年にかけては、イギリスのデボン地方にある美術と応用芸術のための先進的なセンター、ダーティントン・ホール(Dartington Hall)のアーティスト・イン・レジデンス(artist-in-residence)に参加し、バーナード・リーチ(Bernard Leach,)、パール・バック(Pearl Buck)、ウォルター・グロピウス(Walter Gropius)、ポール・ロベソン(Paul Robeson,)、オルダス・ハクスリー(Aldous Huxley.)などの教授陣やゲスト・アーティストと交流した。

1934年の極東への旅では、彼の思想と芸術に大きな影響を与えた。上海の滕頭(Teng Kuei)を訪れたトビーは、中国の芸術、生活、文化に没頭し、都市の動き、光、エネルギーに突然衝撃を受けた。日本では、禅宗の僧院に1ヶ月間滞在し、書道と哲学を学んだ。
正反対のものの相互作用、空虚の有効性、生きている線のエネルギー、個人的な照明の状態を表す光といった東洋の概念は、新しい世界秩序を達成するためのバハーイー教の教義と一致しており、トビーはこれらの概念から、自分の芸術の基礎となる個人的な統合を生み出した。

トビーは、芸術は普遍的な均衡のメタファーであるべきだと考え、生命の相反する力から統一性を生み出し、見る者を自己発見の旅へと導き、最終的には人類の統一性へと導くものであると考えた。

1935年、ダーティントン・ホールに戻ったトビーは、「ブロードウェイ・ノーム(Broadway Norm)」という小さな絵で、オールオーバー・コンポジションへの最初の突破口を開いた。

1938年、ヨーロッパで戦争が始まると、トビーは不本意ながらダーティントンを離れてシアトルに戻り、コーニッシュ・スクール(Cornish School)で新進の前衛作曲家ジョン・ケージ(John Cage)と出会った。

トビーは、ケージが聴覚的に考えていたことを視覚的に裏付けた。

シアトルのパイクプレイス・マーケット(Pike Place Market in Seattle)に魅せられたことで、ピアノ、フルート、音楽理論、作曲のレッスンを始め、抽象化や空間と時間の融合などの概念が広がっていった。

トビーは、1942年に初めて完全に分解されたオールオーバーコンポジション(allover compositions)を完成させた。

1950年代に入ると、トビーは自分の作品に普遍的な内容を持たせることや、アートとテクノロジーの関係に夢中になっていた。彼は科学や哲学を貪欲に読んだ。

1957年の2ヶ月間、トビーは日本の墨絵を描いた。
大きな紙を使って、身振り手振りを交えて自然にインクを飛ばすこの方法で制作することで、トビーは解放感と活性化を得た。

彼の作品は、米国とヨーロッパで広く認められた。

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1961年には、40年にわたる革新と変容を経て、現役のアメリカ人画家として初めてルーヴル美術館(Louvre)で回顧展が開催された。

ルーヴル美術館で開催された大成功の展覧会は、ニューヨークMoMA(Museum of Modern Art/近代美術館)でも開催され、ウィリアム・サイツ(William Seitz)が編集した大規模なカタログとともに展示されたが、ニューヨークでの評価は冷淡なものだった。このような風潮は、トビーをスイスのバーゼルに移住させ、亡くなるまで滞在させるほどの苦痛を与えた。

マーク・トビーは1976年04月24日に、スイスのバーゼル(Basel)で死去した。

ウィスコンシン州センタービル(Centerville, Wisconsin)の緯度、経度。
44°04'11.8"N 91°27'04.5"W
または、
44.069953, -91.451258

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