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フランス系アメリカ人画家イヴ・タンギーが生まれた。

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ArtDailyは2022年01月05日に、イヴ・タンギー(Yves Tanguy)として知られているフランスの超現実主義の画家(French surrealist painter)であったレイモンド・ジョルジュ・イヴ・タンギー(Raymond Georges Yves Tanguy/1900 - 1955)は、1900年01月05日に退役海軍の船長の息子として、フランスのパリ、コンコルド広場(Place de la Concorde in Paris, France.)の海軍退役軍人省(L'hôtel de la Marine)で生まれた。

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彼の両親は、両方ともブルトン(Breton)で生まれた。

タンギーが子供の頃に夏を過ごしたブルターニュのフィニステール海岸の海、空、石は、彼の成熟した作品に登場している。

1908年に父親が死亡した後、彼の母親は故郷フィニステールのロクロナン(Locronan, Finistère)に戻って、青年時代の多くの知り合いや様々な親戚と一緒に過ごした。

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タンギーの兄弟は、第一次世界大戦で亡くなった。

両親や兄弟の情報は、公開されていない。

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タンギーの風変わりであったことから、公開を拒否したのかもしれない。

タンギーの妻は,ニューヨーク州アルバニー郡アルバニー町(Albany, Albany County, New York, United States)で生まれた米国人キャサリン・リン・"ケイ"・セージ(Katherine Linn "Kay" Sage/1898 - 1963)で、彼女はラニエリ・ブルボン・デル・モンテ・サンタマリア、サン・ファウスティーノ公爵 (Ranieri Bourbon del Monte Santa Maria, Prince of San Faustino )の元妻であった。

https://time-az.com/main/detail/62765

タンギーは、子供の頃、悪いことばかりではなかった。
10代の頃、タンギーは幸運にもアンリ・マティスの息子ピエール・マティス(Pierre Matisse, son of Henri Matisse)と友達になった。その励ましとサポートは彼の芸術的キャリアにとって非常に重要であったが、それはすぐには始まらなかった。

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1918年、タンギーは短期間に商船に乗り、軍隊に派遣され、そこで彼は靴下を噛むことから、生きたクモを食べることまで、タンギーの風変わりさと奇妙な習慣を喜んだ詩人で脚本家のジャック・プレヴェール(Jacques Prévert/1900 - 1977)の仲間に入った。

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なんとなく、タモリと赤塚不二夫の関係を思い出す。

1922年に慣習に幻滅した軍隊から解放され、パリに戻って、タンギーとプレバートはモンパルナスで自由奔放なライフスタイルに憧れ、彼らは作家のマルセル・デュアメル(Marcel Duhamel)と一緒にモンパルナス駅のちかく、54 rue du Châteauに引っ越した。
そこで彼はジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico)/1888 - 1978)の絵に興味を持ち、深く感銘を受け、正式な訓練がまったくなかったにもかかわらず、画家になると決心をした。

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1924年に、ジャック・プレヴェールの紹介で、フランスの詩人、文学者、シュルレアリストのアンドレ・ブルトン(André Breton/1896 - 1966)率いるシュルレアリスム運動の画家達と出会い。ブルトンは、タンギーを「もっとも純粋なシュルレアリスト」であると評した。

タンギーはすぐに独自の絵画スタイルの開発に着手し、1927年にパリで初めての個展を開催し、同年後半に最初の妻のジャネットデュクロ(Jeannette Ducrocq/1896 - 1977)と結婚した。

1938年にペギー・グッゲンハイム(Peggy Guggenheim)と緊密な関係を持ち、妻のジャネット・デュクロと一緒にロンドンのギャラリー・グッゲンハイム・ジュネ(gallery Guggenheim Jeune)で最初の回顧展を開催した。 展覧会は大成功で、ペギー・グッゲンハイムは、コレクションのために彼の写真「トイレット・ド・レイル(Toilette de L'Air)と宝石箱に入った太陽(Le Soleil dans son écrin/ル・ソレイユ・ダン・サン・エクラン)」を購入した。 タンギーはペギーの2つの美しいイヤリングも描いた。
ペギー・グッゲンハイムは自伝で「タンギーは人生で初めて金持ちになった」と書いている。

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今回公開された写真は、イヴ・タンギーにより描かれた1対のイヤリングである。

1938年に、仲間のアーティストであるケイ・セージ(Kay Sage/Catherine L Sage Tanguy/1898 – 1963)の作品を見た後、タンギーは二度目の結婚につながった関係を始めた。
第二次世界大戦の勃発により、セージは故郷のニューヨーク(New York)に戻り、タンガイは兵役に適さないと判断し、彼女を追った。

彼は残りの人生を米国で過ごした。 セージとタンギーは1940年8月17日にネバダ州リノ(Reno, Nevada)で結婚した。

タンギーは口頭で、時には身体的にセージを暴行し、彼女を押し倒したり、時には個人的に、あるいは社交の場でナイフで彼女を脅すことさえした。

セージは、友人の説明によると、夫の攻撃に反応しなかった。

カップルはコネチカット州ウッドベリー(Woodbury, Connecticut)に引っ越し、古い農家をアーティストのスタジオに改造した。彼らはそこで一生を過ごしました。1948年、彼は米国の帰化市民になった。

パリ、コンコルド広場(Place de la Concorde in Paris, France.)の海軍退役軍人省(L'hôtel de la Marine)の緯度、経度。
48°52'00.0"N 2°19'23.0"E
または、
48.866667, 2.323056

タンギーとプレバート、マルセル・デュアメルと住んだ54 rue du Châteauの緯度、経度。
48°50'13.0"N 2°19'06.6"E
または、
48.836931, 2.318497

2012-01-31---アメリカのアーティスト、ドロセア・タンニングが死去した。

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