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スイスの画家で、イラストレーターのパウル・クレーが死去した。

ArtDailyは2022年06月29日に、スイスのドイツ語圏のアーティストであったパウル・クレー(Paul Klee/1879 - 1940)は、ロカルノのムラルト(Muralto, Locarno, Switzerland)近郊のサンタニェーゼ療養所で死去した。

ポール・クレーは、スイスの法律により、父親の国籍を保持していた。晩年に彼はスイス市民権を申請したが、それが付与される数日前に、ドイツ人として死亡した。

パウル・クレーは、スイスのベルンの近郊ミュンヘンブーフゼー(Münchenbuchsee)で生まれたので、ベルンの小さな美術館に、驚くほどの名作が展示されている。

父ハンス・ヴィルヘルム・クリー(Hans Wilhelm Klee/1849 - 1940)はドイツ生まれの音楽教師、母イダ・マリー・クリー(Ida Marie Klee/1855 - 1921)も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家で、クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻リリー・クリー(Lily Stumpf/Lily Klee/1906 - 1940)もピアニストであった。

2人の間には息子のフェリックス・パウル・クレー(Felix Paul Klee/1907 - 1990)がいて、パウル・クレーの碑文を刻んだ。

家族の写真が残っているが、本人だけが写っていないので、撮影したのがパウル・クレーだったのだろう。

兄弟としては、3歳年上の姉のマシルダ・クレー(Mathilde Klee/1876 - 1953)がいた。

https://time-az.com/main/detail/3752

ドイツで、ロシアの画家ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky)、フランツ・マルク(Franz Marc)らの「Der Blaue Reiter (青騎士)」のグループに参加し、アート、デザイン、および建築のバウハウス(Bauhaus)で教鞭をとったこともある。

バウハウス退職後は1931年から1933年までデュッセルドルフの美術学校(Kunstakademie Düsseldorf)の教授をしていたが、1933年のナチス政権の成立とともにはじまった前衛芸術の弾圧はクレーにも及び、批判も激化し、美術学校からの休職の通達やアトリエの家宅捜索を受けたクレーは身の危険を感じた妻リリーの促しもあり、生まれ故郷のスイス・ベルンに亡命した。

しかし、ドイツ国内の銀行口座が凍結され、経済的な困窮に陥った。

更に亡命の2年後に原因不明の難病である消耗性疾患、強皮症(wasting disease, scleroderma)が発症し、晩年の5年間は療養と闘病のなかで制作を行うことになった。

その苦しみを最期の作品に反映させていたようで、最晩年の作品のひとつ「死と炎(Death and Fire)」は、中央に頭蓋骨を配し、顔にはドイツ語で死を意味する「Tod」が描かれている。

しかし、1937年には復調し、旺盛な創作意欲を見せ、同年にはピカソとブラックがそれぞれクレーを訪問している。

1939年には創作の爆発に達し、デッサンなども含めた1年間の制作総数は1253点に及んだ。

この頃の作風は手がうまく動かないこともあって、単純化され、線や色のあるは太い線の場合が多い、独特の造形が主な作品となった。

一時期は背もたれのある椅子に座り、白い画用紙に黒い線を引くことにより、天使などの形を描いては床に画用紙を落とす事を繰り返していた。
1940年には、画架に『無題(静物)』を残してロカルノ近郊のサンタニェーゼ療養所(Clinica Sant’Agnese in Muralto)に移り、その地で死去した。ベルンのショースハルデン墓地(Schosshaldenfriedhof, Bern, Switzerland)にあるクレーの墓石には、息子のフェリックス(Felix)がクレーの信条として刻んだ。

「私は今ここでは全く理解されない。
私の住処は死者の中にあるのと同様に。
まだ生まれていない胎児と同じように。
いつもより少しだけ、創造の中心に近い。
そしてまだ、まだ十分ではない。」というクレーの言葉が刻まれている。

Diesseitig bin ich gar nicht fassbar
Denn ich wohne grad so gut bei den Toten
Wie bei den Ungeborenen
Etwas näher dem Herzen der Schöpfung als üblich
Und noch lange nicht nahe genug.

I cannot be grasped in the here and now,
For my dwelling place is as much among the dead,
As the yet unborn,
Slightly closer to the heart of creation than usual,
But still not close enough.

また、パウル・クレーは、カンディンスキー(Kandinsky)、ファイニンガー(Feininger)、ジュエリンスキー(Jawlensky)と共に「Die Blaue Vier(青の4)」のメンバーでもあった。

彼の高い個々のスタイルは、表現主義(Expressionism)、キュービズム(Cubism)、およびシュールレアリズム(Surrealism)を含んだアートのムーブメントに影響された。

彼の作品は、彼の乾燥しているユーモア、および彼の時々無邪気なパースペクティブ、彼の個人的な気分と信念、および彼の音楽的才能を反映する。

ArtDailyは2017年06月29日に公開された作品は、アカデミー賞受賞の監督で、少女を強姦したロマン・ポランスキー(Roman Polanski )が、パウル・クレーの作品「無題(死の天使/Angel of death)」の前に立った時の写真であった。

今回公開された作品は、パウル・クレーが1938年に描いた「Young Moe」
黄麻布の上の新聞にカラー・ペーストされている。
20 7/8 x 27 5/8インチ。1948年に、ワシントンDCのフィリップス・コレクション(The Phillips Collection, Washington, DC)によって買い取られた。

パウル・クレーの息子で美術史家であったフェリックス・クレー(Felix Klee)は82歳で、1990年08月16日にベルンで父親の死後50周年を記念する展覧会をする3日前に死去した。

彼の作品は、スイス当局からは革命的すぎて退廃的とさえ見なされたが、最終的には死後6日目に彼の要求を受け入れた。 彼の遺産は約9,000点の芸術作品からなる。

私は個人的に、ベルンにある小さな画廊に飾られたクレーの作品が好きで、何度も訪れ、そこの主とも知り合いになった。

ロカルノのムラルト(Muralto, Locarno, Switzerland)のGoogle Earthポインター情報
46°10'23.2"N 8°48'05.2"E
または、
46.173117, 8.801447

ベルンのショースハルデン墓地(Schosshaldenfriedhof, Bern, Switzerland)の緯度、経度。
46°57'10.7"N 7°28'26.5"E
または、
46.952967, 7.474028

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