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フランスのイラストレーターで、画家オノレ・ドーミエが生まれた。

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ArtDailyは2025年02月26日に、19世紀のフランスの社会的な論評を提供する多くの作品と政治生命を持つフランスの版画制作者、風刺画家、画家、および彫刻家であったオノレ-ビクトリン・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier/Honoré Daumier/1808 - 1879)は、フランスの地中海岸の町マルセイユ(Marseille)で釉薬師(現在では額縁屋に相当)の職人のジーン・バプティスト・ルイス・ドーミエ(Jean-Baptiste Louis Daumier/? - ?)とその妻セシル・キャサリン・ドーミエ(Cécile Catherine Daumier(婚前はフィリップ/Philippe/? - ?)の子として1808年02月26日午後3時に、サンマルタン広場11番地(11 Place Saint-Martin)とリヨン通り(Rue de Lyon)の角で生まれたと報告した。

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彼は両親から、「NORIN」という愛称で呼ばれていた。

オノレ・ドーミエは1808年02月29日に、Église Saint-Martin de Marseilleで洗礼を受けた。
出生簿はマルセイユ大司教区の公文書館(archives of the Archdiocese of Marseilles)にある。

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1815年に、妹のバプテスト・ドーミエ(Baptistine Daumier/1815 - ?)が生まれた。

https://time-az.com/main/detail/63386

職人であった父ジャン=バティストは、文学趣味の強い人物で、詩人として身を立てるため、1814年ころに、家族を置いてパリに赴いたというとんでもない男であった。

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ところが、妻と子どもたちも父を追って1816年にパリに出てきてしまった。

そのとき、オノレ・ドーミエは8歳であった。
家庭は当然貧乏で、父親は、少年時代から司法省のワイズエ・ド・ジャスティス(huissier de justice)の使い走りやパリの生活の中心地であるパレ・ロワイヤルの老舗書店「ドローネ(Delaunay)」の店員として走り回っていたが、14歳になったオノレ・ドーミエは画家に師事し、1822年には、父親の友人であり、フランセ・モニュメント美術館(the Musée des Monuments Francais/現フランセ国立モニュメント美術館/Musée national des Monuments Français)の創設者であるアレクサンドル・ルノワール(Alexandre Lenoir)の弟子となり、彼はドュミエに美術の基礎を教えた。自由な時間の多くをルーブル美術館(Louvre)で過ごしてティツィアーノやルーベンスの技法を学び、有名な私塾アカデミー・シュイス(Académie Suisse/スイス/アカデミー)にも入学し、フィリップ・オーギュスト・ジャンロン(Auguste Jeanron)やオーギュスト・ラフェ(Auguste Raffet)などの学生たちと交流を深め、実物の模型を使って絵を描くことができるようになった。

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リソグラフィーは、ドイツで1790年代後半に発明された比較的新しい版画制作の形態で、19世紀初頭に、伝統的な彫刻やエッチングと比較して、これは、迅速かつ安価に大量の印刷物を生産する方法であった。

パリでは、社会的・政治的な激動の時代に、安価な図版紙や定期刊行物の需要を満たすために、リトグラフ工房が台頭してきていた。

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イギリスではウィリアム・ホガース(William Hogarth/1697 - 1764)、トーマス・ローランソン(Thomas Rowlandson/1756 - 1827)などによって、比較的確立されていた風刺画の芸術が、フランスではこの時期に流行し始めたばかりであった。

オノレ・ドーミエはシャルル・ラメレ(Charles Ramelet/1805 - 1851)からリトグラフを学び、ゼフィリン・ベリアール(Zéphirin Belliard/1798 - 1861)のもとで仕事を見つけ、1820年代半ばから後半にかけて、しばしば匿名で、雑多なイラストレーション、広告、街並み、肖像画、風刺画などを制作したが、同時に長年にわたって技術を磨いていた。

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19世紀前半のフランスはジャーナリズムの勃興期で、新聞・雑誌などが多数創刊されたが、識字率のさほど高くなかった当時、挿絵入り新聞の需要は大きく、挿絵入り風刺新聞「ラ・カリカチュール(La Caricature)」や「ル・シャリヴァリ(Le Charivari)」を創刊したシャルル・フィリポン(Charles Philipon/1800 - 1861)は版画家としてのドーミエの才能を見抜き、1831年、23歳のドーミエを採用した。

オノレ・ドーミエは、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec-Monfa/1864 - 1901)、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh/1853/ - 1890)など、後世の画家に影響を与えたことで知られている。

2020年に公開された絵は、オノレ・ドーミエが1867年か1868年頃に描いた「昼食(Lunch in the Country)」
作品は、パネルに油彩で、26x34cm。
カーディフのウェールズ国立博物(National Museum of Wales, Cardiff.)

今回公開された写真は、1850年頃に制作されたと思われるベースレリーフ「Les émigrants」で、大人と子供の一連の人物で構成されている。

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また、ArtDailyが2017年02月11日に、オノレ・ドーミエの作品として紹介した風刺画は、食道楽家のルイ・フィリップ王(King Louis Philippe)の政治風刺で、ラブレーの本の食いしん坊の巨人ガルガンチュアのポートレイト(portrayed as Gargantua, the gluttonous giant in the books of Rabelais)として描かれた作品である。

この絵が公開されたことで、オノレ・ドーミエは6ヶ月間留置所に収監された。

サンマルタン広場11番地(11 Place Saint-Martin)とリヨン通り(Rue de Lyon)の角の緯度、経度。
43°18'42.9"N 5°22'19.2"E
または、
43.311925, 5.371992

Église Saint-Martin de Marseilleの緯度、経度。
43°18'42.0"N 5°22'15.1"E
または、
43.311664, 5.370856

1955-11-05---フランスの画家モーリス・ユトリロが死去した。
1879-02-11---フランスの風刺画家オノレ・ドーミエが死去した。

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