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病室のテレビで見た直径10センチの日本一の長岡花火〈介護幸福論 #15〉

「介護幸福論」第15回。今回は筆者の故郷・新潟長岡の花火について。例年8月2日、3日にこの地で行われる大花火大会は、空襲の慰霊のために始まった経緯があるが、母はこの花火が好きだった。介護生活中も病室の小さなテレビで母と一緒にこの花火大会を見た。言葉を交わした。「あと何回、母といっしょにこの花火を観られるのだろうか」そんなことが頭をよぎった。

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■花火で有名な町・長岡

 実家がある新潟県長岡市について、いくらか紹介しておきたい。

 長岡は花火で有名な町だ。毎年、8月2日と3日に夏まつりの大花火大会が行われ、来場者は2日間で100万人を超える。

 近年はNHKやインターネットで長時間の生中継がされるようになり、全国的な知名度も上がった。三尺玉やフェニックスなどの名物花火の連続に、地元の人間は「おらんとこの花火が日本一だ」と胸を張る。

 裸の大将こと山下清の貼り絵『長岡の花火』や、「世界中の爆弾を花火に変えて打ち上げたら世界から戦争がなくなるのに」 という山下の言葉も有名だろう。

 この長岡花火は慰霊の花火としての歴史を持つ。

 昭和20年8月1日。長岡の夜空に米軍のB29が襲来し、2時間近くに渡って市街地が爆撃にさらされた。この空襲で長岡は焼け野原となり、1486名の命が失われた。

 戦禍のどん底から立ち上がるべく、1年後の昭和21年8月1日に開催されたのが、長岡まつりの前身の長岡復興祭だった。

■慰霊の役割を持った花火

 だから長岡まつりは今も、何曜日だろうと8月1日に始まり、空襲と同じ時刻に慰霊の尺玉(10号玉)が打ち上げられた後、2日と3日に大掛かりな花火大会が開かれる。観光客を呼び込むことを優先するなら、土曜や日曜に開催したほうが良いのに、それはせず8月2日と3日に決まっている。

 うちの母の母も、長岡空襲で命を落としたひとりである。会ったことはないが、ぼくのおばあちゃんだ。

 母は昭和9年生まれだから、昭和20年当時は11歳。きょうだいは5人いた。ぼくのおばあちゃんにあたる人は、幼い子供を5人残して戦争の犠牲になった。

 そんな家庭環境だったため、長岡花火が慰霊目的だという大切な根っこは子供の頃から刷り込まれていた。8月1日の夜に「白菊」という白一色の追悼花火の音が聞こえると、母は毎年決まって「この花火は空襲が始まった時間に打ち上げられるんだよ」と、繰り返し教えてくれた。
(現在、諸事情により「白菊」という名称は使えなくなっているようだが、いつかこの呼び名が復活することを願って、そのまま使わせてもらう)

 母の姉はもっと壮絶な体験をしていて、空襲の下を母親とふたりで逃げ回った。そして母親は被弾して亡くなり、自分は助かった。これがどれだけの過酷な記憶なのか、想像もつかない。

 だから母の姉は花火が嫌いだ。長岡花火と戦争について描いた映画がつくられた時も「どうせ嘘っぱちだから見たくもない」と、興味を示さなかった。

■花火が好きだった母

 それでも、母は花火が好きだった。

 実家は信濃川の打ち上げ会場から3、4キロ離れていたから、長岡まつりの花火は、近所の土手にゴザを敷いて「音が遅れて聞こえてくる小さめの花火」を建物越しに見るか、打ち上げ会場まで出かけて大きな花火を間近で見るか。2つの選択肢があった。

 河川敷の打ち上げ会場まで出かけると、迫力がケタ違いだ。でも、帰り道が長い徒歩の道のりになるため、子供の頃のぼくは一度それでグズった。中学や高校に上がると、花火なんてどうでもいいよと、見向きもしない年もあった。

 今になれば、もったいないことをしたと悔やまれるが、中高生の男の子というのは総じてバカである。

 地元の宝の価値を知らぬまま過ごす。まわりが騒ぐ伝統的な行事に背を向けるオレってカッコイイなどと、愚かな価値観をまとって目の前の大切なものを見過ごしてしまう。十代のアホな少年は、日本一の花火の価値がわかっていなかった。

 わがままな子供たちから解放され、夫婦ふたりで暮らすようになってからの母は、父と連れ立って信濃川の河川敷までたびたび出かけて行くようになったと聞いた。

 どんな目で花火を見上げていたのか。そこに空襲で亡くなった母親を重ねていたのかは、よくわからない。単純にきれいなものが好きだっただけなのかな。

■病室のテレビで見た花火

 母が病気になって以降、花火まつりはテレビで見るものに変わった。ここからは前回の続きだ。

 抗がん剤治療が始まり、入院中の楽しみはテレビくらいしかない。気掛かりだった副作用は心配したほどでもなく、痛みや苦しみをともなう治療ではないようだった。
「吐き気もないし、食欲もあるから大丈夫。心配しないで」
 母はケロッとしていて、これは本当に幸運だった。これなら70代のおばあちゃんでも治療を続けられる。

 ただし、表面的な副作用は小さくても、身体の中の副作用は大きかった。母のケースでは2週間に1度、抗がん剤を投与する。投与すると、白血球や血小板の数が一気に減り、免疫機能が低下してしまう。

 これらの値を慎重に計測しながら次の抗がん剤の投与に備えるのだけれど、母はこの免疫機能の低下が著しかった。

 治療開始時は4人部屋だったのに、抗がん剤の投与後は1人部屋に移され、ぼくにも「部屋に入る前は必ず消毒などしてから入室してください」という注意が与えられるようになった。免疫の衰えた年寄りが、何かの病気に感染したら命取りになりかねない。

 この状況で毎日おっさん菌を持ち込まないほうがいいだろうと、お見舞いの回数も減らしたが、それでも長岡花火の日は面会時間の午後8時まで、母といっしょに病室の小さなテレビで花火を楽しんだ。

 名物の三尺玉は開花直径600メートルという、とんでもなく大きな花火なのに、病室のテレビでは直径10センチくらいになってしまう。

 小さな液晶画面におさまる三尺玉はさすがに味気なかったが、その後に遅れて聞こえてくるドーンという大きな音だけは、この町で打ち上げられている花火なのだという現実感を与えてくれた。

「今日の三尺玉は、ちょっといびつだったね」
「錦冠(にしきかむろ)ばっかりだね。もっと千輪菊(せんりんぎく)もやればいいのに」
 そんな会話を交わしながら、あと何回、母といっしょにこの花火を観られるのだろうかと、あまり考えたくないことがよぎった。

*プロフィール
田端到(たばたいたる)。1962年、新潟県生まれ。大学を中退後、フリーライターに。競馬や野球を中心に著書は50冊以上。競馬の分野では「王様」の愛称で知られる。ほかにテレビドラマや映画のセリフ研究家、アスリートの名言コレクターの肩書きを持つ。両親の介護をするため、40代後半で帰郷。6年間の介護生活を送る。
ツイッターアカウント:https://twitter.com/4jkvvvypj6cdapf

※本連載は毎週木曜日に更新予定です


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