今後の計画について

「忙しい」という言葉が嫌いだ。他人に使われる分には特段怒りもしないが、自分から使うことには強い抵抗感がある。

生きているとどんどん欲が出てくる。他人はどうだか知らないが、少なくとも私はそうだ。食べたいもの、行きたいところ、会ってみたい人、そしてやりたいことが日ごとに増えてくる。

今年の夏、私は時間も金もとにかく創作活動に費やした。句会を含め、行きたいイベントには参加募集記事を読んだ次の瞬間には申込を完了させた。読みたいと思った本は迷う間も作らずに買った。スケジュールを詰め過ぎて心身ともにいささか疲弊もしたし、経済的にはかなりのマイナスとなったが、心はこれまでの人生の中で最高だと思えるほど充実した。

こうして年も考えずがむしゃらに動いてみた結果、たとい弱々しい思いつきに始まったとしても、まずは実行してみることが重要だと私は痛感した。時間は戻らない。行きそびれたイベントには参加出来ないし、会いたいと思っていたうちに会えなくなる人だっている。「たった一度きりの人生」などというフレーズはおちゃらけた開き直りをそれらしく言い換えただけに感じられて嫌いだったのだが、近頃はそういった感覚にもいくらか理解を示している自分がいる。

俳句にしろ、現代川柳にしろ、私は未熟で無知で無力だ。俳句に関しては、荻窪の鱗のおかげで多くの関係者とのご縁を賜り、麒麟俳句会ではのびのびと俳句を楽しむことを学んでいる最中だ。嬉しいことに褒めてもらえることも増えたが、これで調子に乗っては成長はのぞめない。

一方現代川柳についてはというと、まつりぺきん氏による一大企画『川柳EXPO』への投稿をきっかけにおっかなびっくりその道を歩み始めたばかりで、関係者との繋がりはまだ弱く、掲載していただいた連作および句に対するコメントもゼロに等しい。現代川柳界で最も注目度の低い人間を挙げるなら間違いなく私だろうという自信だけはある。異論は認めない。

いずれにせよ、自分に才能はないと思っている。詩はインテリにこそ相応しいものだという考えは今も私の奥底に巣食っており、折に触れて私自身をぢくぢく攻撃する。治る気配のない胃痛のようだ。

ただ、だからこそ諦めるつもりもない。俳句を知らなければ句会に参加することもなかっただろうし、句集も買わなかっただろう。現代川柳に出会わなければ、もっと味気ない人生を送っていただろうし、句集を買い集めることもなかっただろう。どちらとも知らない世界を生きていく私の方が、少しばかり経済的に余裕があったかもしれないが、そのくらいのデメリットしかないのならばどちらにも出会っている今の生き方の方がずっといいのだ。

2023年も9月まで進んでしまった。すべてを年内に実現することはかなり難しいかもしれないが、それでも私にはやりたいことがある。

・私家版句集をつくる
・いちご摘み句集をつくる
・造形作品をつくる
・noteに鑑賞記録を定期的に書く

特にいちご摘み句集については数名に声をかけさせていただきたいと考えている。ご協力いただけるのであれば何かしらのお礼もさせていただくつもりだ。私はこれまで1人で冊子を作り上げた経験がない。かなりハードルは高いが、やってみたいものは仕方がないので必ず形にする。

造形作品については、突拍子もないかもしれないがこれは早いうちに実現させたい。作りたいモチーフも材料もあるのだが、デザインが固まりきらないのが悩みだ。あれこれ考える前に手を動かすべきなのかもしれない。

インプットにも引き続き時間は割くし、連作をいくつか作れたら句集にする準備を始めるつもりだ。一度にすべてを形にすることはまず不可能だろうが、わくわくすることをやめずに突き進んでいきたい。どうせ後戻りは出来ないのだから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?