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黄泉界の人

 あれは、俺の手じゃないのか。

 薄暗い部屋の中で力の抜けた手のひらが弱い光に照らされている。その生白い腕を、白く薄汚れた糸くずの山が覆いつくしていた。
 腕だけじゃない。夜風ではない何かに揺られるその山は、汚らしい羽毛布団のように床に広がっている。青白い手や足先が見えていなければカーペットと言ってもおかしくない。

 あの手足に覚えがある。ほくろ、しわ、骨の形の浮き出る皮。見れば見るほど、覚えがある。

 窓を背に誰か立っていた。視界が固定されていて顔は見えないが、うつむいて息を荒げているのはわかる。夜の街の灯を背にしているためか、背格好もよく分からない。だがその右手の尖りものは、はっきりと見えた。ねばつく液体が先端から滴り落ち、フローリングに染みを作っている。その染みは大小の飛沫となり点々と続いていた。糸くずの山へと。

 その床。へこんだフローリング。よれたカーテン。ウェブカメラが置かれたパソコンデスク。室内の全てに見覚えがある。

 ここは、俺の部屋だ。

 糸くずの一本一本が生き物のようにうごめき、ずるりと盛り上がる。糸のひとすじひとすじが窓から射す光よりも強くきらめく。白い発光体の群れと化した糸くずは蛇のようにくねり、人影にまとわりついた。人影の着衣は窓から吹く風で微かに揺れるだけだった。

 糸塊の下には男の体があった。フローリングに敷かれた粗末なマットレスであおむけに寝ている。その胸から腹にかけての輪郭がぐずぐずに崩れ、周囲を赤黒い液体が汚している。

 死体だった。俺が、殺されていた。

 人影はゆったりとした足取りで血だまりを避け、窓へと歩き出した。風になびくカーテンを避けて窓からベランダへ出て行き、静かに窓を閉める。糸くずのひと房がサッシの隙間から顔を出すと窓鍵へ絡まり、音を立てて降ろした。閉じた半月金物を撫でながら、それは来た道を戻って視界の外に出て行った。

 視界は動かない。動かしたくても動かなかった。

【続く】

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