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もう食べられないだろう汁なし担々麺への思いが昂ったので綴る

 思い出がある。ぼくが大好きだった汁なし担々麺のことだ。

 麺が細い。昔懐かしい冷やし中華みたいに微かに縮れつつ、弾力よりも歯切れの良さがある細い麺だった。
 痺れる麻も食味を損なわない程度。舌先がちょっと麻痺してきたかな? と感じる頃合いで辛さにかわる。
 水菜とパクチーは少量だが適量。シャキシャキと触感を楽しみ、葉野菜の香りをそれとなく味わえる程度。
 そしてひき肉とナッツの甘辛餡。この甘辛さ加減がほんとうに優しく、主張しすぎない。
 全体の量がちょっと少なめなのも絶妙で、セットの小鉢や小ライスと併せて何度も味変を楽しめたのだ。
 世の辛い麺ファンにはきっと致命的に物足りなかったと思うが、ぼくには本当にベストマッチだった。

 大変失礼なことを承知で、この麺に最も近い代替製品を挙げることができる。それはカップ麺のやきそばだ。
 これまた失礼千万で怒られても仕方ない表現だが、このカップ麺をソシャゲのRグレードとすると、あの店の汁なし担々麺はSSRだった。ぼくはカップ焼きそばが好きなのだが、その理由はたぶんここにある。
 だが満たされない。カップ焼きそばを美味しいと思い完食する。そうすると決まって、あの汁なし担々麺が食べたくなる。

 そんな店も、もうない。

 コロナ禍で一時閉店。地元紙にも紙面が割かれ、店主の「機会さえあれば再開したい」というコメントすら載った。だがそんな店も先日、住宅街となり果てた。食から住へ変わってしまった。物理的に店が消えてしまった。
 なぜか同じ名前の店が界隈に二軒ある。が、それぞれ全く別物の店だった。それぞれの店でそれぞれ良さがあるが、双方ともに汁なし担々麺は置いていない。

 では、と方々で汁なし担々麺を探す。だが求めるものは見当たらない。その過程で気付いたが、自分は中華麺があまり得意ではないようだ。油濃かったり、塩が強かったり、麺が太かったり。これらに引っかかると完食も怪しい。ひょっとするとあの汁なし担々麺は本場からするとかなりジャパナイズされたオリジナル商品だった可能性がある。

 あの汁なし担々麺から別れて数年。食べたい、と思いつつすでに諦めはついている。それでもふとした瞬間に襲ってくる欲求は無視できない。あの汁なし担々麺が食べたいと。
 たぶんこれは思い出補正だ。もう二度と食べられないからこそ惜しいのだ。大昔に亡くした厄介な親族と似たようなものだ。実際に顔を合わせれば幻滅することだろう。思い出とは厄介なものだ。そう思って、他の記憶と同様に汁なし担々麺の思い出を封印することにした。出会えるわけの無いものの面影を追うことは、いま現世にあるものに対して失礼にあたるからだ。彼らはかれの代わりではなく、彼ら自身に他ならないのだから。

 そう言いつつ、ひと月くらいしたらまた汁なし担々麺を探していることだろう。本当に、女々しい。

 書き終えて読みかえしたがほんとうに気持ち悪いなこの文章。

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