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飛び出せ!佐久間探検隊

第十七回 伏尾の地に偉大な総理大臣の足跡を見た!


ドモ。佐久間探検隊の隊長、佐久間ディックです。

今日は8月15日。
終戦記念日です。
でも終戦記念日である事は知ってても、
昭和天皇と共に戦争を終わらせた総理大臣をご存じですか?

彼の名は鈴木貫太郎。


出身地は千葉ですが、生まれは堺なんです。
彼が産まれた伏尾の地には、碑が建っています。
今回はそこと彼が崇拝していた多治速比売命を祭った、
多治速比売神社を探検してみました。
出発地は泉北高速鉄道泉ヶ丘駅の北口になります。

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テラスに出ると、左側にある階段を下ります。

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下りた先がバス停なのですが、ちょうど到着してたので飛び乗ります。
行き先がわかりにくいのですが、堺東駅前行きでした。
この他には津久野駅前行きのバスでも、到着は可能です。

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程なくしてバスは発車しました。
車内はそこそこの乗車率。
実はこの路線の歴史は古く、
泉北高速開業前はニュータウンの通勤・通学輸送を一手に担ってました。

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天の橋バス停で下車。
料金は240円でした。
近くにはくら寿司スタジアム堺(原池公園野球場)があります。
先日は高校野球の大阪大会が行われてましたね。
遠くに見えてる高架は、阪和自動車道

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180度向きを変え、歩き始めます。

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道路の反対側には、ガソリンスタンドが。

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丁度ガソリンスタンドの反対側に進むと、見えてきました。

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海軍大将 侍従長 鈴木貫太郎誕生之地

の石碑です。

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鈴木貫太郎は1868年1月18日、
和泉国大鳥郡伏尾新田であったこの地で誕生しました。
父親が代官であった為です。
1871年に本籍地の千葉県東葛飾郡関宿町(現在の千葉県野田市)へ転居。
1884年に海軍兵学校へ入学し、1895年に日清戦争に従軍後、
1897年に海軍大学校へ入学して1898年に卒業しました。
1903年、ドイツ駐在中に中佐に昇進。
翌1904年に始まった日露戦争では駆逐隊指令として、
日本海海戦の勝利に貢献しました。
1923年に海軍大将になり、1924年には連合艦隊司令長官、
1925年には海軍軍令部長に就任しました。


1929年には昭和天皇と貞明皇太后のご希望で、

侍従長に就任。


昭和天皇の信任は厚かったのですが国家主義者などから反感を買い、
1936年の二・二六事件では銃撃されて重傷を負ってます。
翌1937年に多治速比売神社に負傷からの本復祝として、
後妻のタカ夫人と参拝。
多治速比売命が枕元に立ち、命を救って下さった御礼だそうです。
1944年には枢密院議長に就任しました。

1945年4月、第42代内閣総理大臣に就任。

鈴木は「軍人は政治に関与せざるべし」という信念から固辞しましたが、
昭和天皇の「頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」とのお言葉で、
受託しました。
就任直後に死去したアメリカのルーズベルト大統領に弔意の談話を発表し、
徹底抗戦を主張する陸軍に対し終戦工作を行いました。
8月14日の御前会議でポツダム宣言受託が正式決定され、
翌15日に終戦を迎えると辞表を提出し、8月17日に退任しました。
戦後は12月15日に枢密院議長に就任しましたが、
公職追放により1946年に辞職しました。
1948年4月17日、肝臓がんの為80歳で亡くなりました。画像10




地元の自治会による石碑の説明文。

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正面から見た石碑。
かなり大きい。

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書を書いたのは林弥佐吉
1876年生まれの陸軍軍人。
第4師団長だったのは1928年から1930年まで。
書を頼まれたのは、大阪駐在の第4師団長だったからでしょう。
1937年に宇垣一成内閣の組閣に尽力した人物です。
なお、フリーアナの宇垣美里は宇垣一成の大甥の孫娘になります。

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石碑の裏面。
昭和四年六月建之という事は、侍従長就任のお祝いでしょうね。

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建設者は中辻義晴。
少し調べてみたのですが、詳細は不明でした。
ただ、中辻という苗字はここら周辺の地の人に多い苗字。
おそらく当時の村の有力者だったと思います。

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石碑を後にして、多治速比売神社に向かいます。
緩い坂道ですが、日光は容赦なく探検隊を照り付ける。

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最寄り駅と言うとどの駅にしようか迷うほど駅から遠いのですが、
案外住宅地となってます。
とはいえまだまだ畑なども多いのですが。

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緩い右カーブの先に、1個目の交差点が。

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1個目の交差点。
結構左側からやってくる自動車は多い。
幹線道路の泉北1号線へと続いているせいだろう。

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1個目の交差点を渡るとすぐに、2個目の交差点が。
「伏尾」と書かれた看板が示しるように、
一般的にはここの周辺が伏尾と呼ばれる地域です。

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交差点を進み、道の勾配は緩やかになりました。
それにしても暑い。
日差しは探検隊に降り注ぐ。

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ここもまだまだ住宅地。
比較的大きな住宅が並んでいる。
高級分譲住宅地なのであろうか。

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3個目の交差点が見えてきた。
道は直進するとまた坂道になるようです。

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3個目の交差点に到着。
ここで左折します。

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横断歩道を渡ります。

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左に向きを変え、また横断歩道を渡ります。

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なだらかな道を歩く。
右には住宅街、左には池がある風光明媚な土地です。

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さらに進むと団地が。
丁度前のお店に自販機があったので、飲み物を買いました。
熱中症には注意しないとね。

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宮山台の交差点に到着しました。
横切る道路は泉北ニュータウンを環状する道路。

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道路を渡った場所に、看板が。
草に覆われてて、ちょっと見え難いのですが。

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渡った先は登り坂。
暑い中歩いてきた体には、正直キツイなぁ。

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息をフーフーさせながら、宮山台2丁の交差点に到着しました。

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交差点の横断歩道に現れたのは、多治速比売神社の大看板。
看板に従って右折します。

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大看板の傍にあった由緒を書いた看板。
580年というと、敏達天皇の時代。
都は訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市)でした。

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先ほどまでと比べて緩やかと言えど、またも坂道を上る。

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暫くして道が平らになる。
ここは神社横の駐車場のようだ。

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現れた小さな門。
ここが入口のようなので、入ってみる。

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門を入った場所にある案内板。
どうやらここは脇門のようです。

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説明の看板。
市が設置した物なので、櫻井神社と同じ書式ですね。

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拝殿の全景。
前述通り1937年に鈴木はタカ夫人と共に参詣してます。
話は脱線しますが、
実はタカ夫人も昭和史に大きくかかわった人なんです。
タカ夫人の結婚前の名前は、足立タカ
1915年に32歳で海軍少将だった鈴木と結婚しましたが、
それまでの10年間、皇孫御用掛だったのです。

皇孫御用掛というのは早い話、昭和天皇の養育係。


昭和天皇の人格形成に大きくかかわった人物なのです。
昭和天皇はタカ夫人を母のように慕い、
後年に侍従長や総理となった鈴木に
「タカはどうしておる」
「タカの事は、母のように思っている」
と語られました。

また二・二六事件の時の事です。
銃撃され倒れた鈴木に、反乱部隊の安藤大尉がとどめを刺そうとしました。
その時兵士に抑え込まれていたタカ夫人は、
「お待ち下さい!」
と叫び、
「老人ですからとどめは止めてください。
どうしても必要というならわたくしが致します」
と言い放ちました。
安藤大尉はとどめを刺すのをやめ、兵を引き上げました。
それからの止血の処置、医者の手配、鈴木の搬送にタカ夫人は活躍し、
病院で心臓が停止した鈴木に呼び掛け、息を吹き返させました。
また鈴木が襲撃された事を、昭和天皇に直接電話をかけて伝えてます。

鈴木夫妻は昭和天皇にとって、父母のような人物だったのですね。

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探検隊もちゃんとお参りしました。

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社務所では御朱印が。
最近流行ってますからねぇ。
個人的には鈴木にまつわるグッズがあれば、と思うところ。

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境内には稲荷社があります。
1923年に本殿改築及び玉垣新築をしています。

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その玉垣石の一本に、鈴木が奉納しています。
特に何の表記もありませんが。
また参集殿には
「敬神崇祖」
と書かれた大きな扁額が残されてます。

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如何だったでしょうか。
夫婦ともども昭和天皇に慕われ、
父母のような存在だった鈴木貫太郎夫妻。
太平洋戦争の終戦にも大きな仕事をしました。
それなのに今の教育では、存在がなきに等しいのです。
おかしいでしょう。
戦争を終わらせる事は、始める事より難しいのです。
まして敗戦です。

鈴木貫太郎は日本の総理の中で、

唯一それを成し得た人物です。


偉大な総理大臣であった事は、間違いないと思います。

「伏尾の地に偉大な総理大臣の足跡を見た!」

おわり。

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