中村正直〈記安井仲平托著書事〉00

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〈記安井仲平托著書事〉
余頃受英國留學都統【①】之命。世人未甚知之也。而安井仲平獨先知之。一日來訪。余喜邀之。///仲平則曰:「聞子奉命赴英國。因欲托子以一事。肯聽從否」。余曰:「先生有命,苟力可能,豈敢違哉」。仲平笑出一部書。即《管子纂詁》【②】。余所嘗觀者。///於是,仲平手授是書曰:「子赴

注釈:
①都統:「都統」は、清朝八旗軍の一軍を預かる最高司令官。ここでは、幕府が選抜した留学生グループの取締役を意味する。幕府はイギリスへの留学生派遣を決定し、幕臣から志願者を募って開成所で試験を行い、14名の留学生を選抜した。中村正直は当時35歳ながら、すでに幕府の最高学府たる昌平坂学問所の儒官であり、留学生グループの取締役に任ぜられた。なお他の13名は、みな12~23歳の青少年であった。
②《管子纂詁》:詳しくは、町田三郎〈力作の『管子纂詁』〉(《江戸の漢学者たち》、研文出版、1998年6月、p.187-203)を参照のこと。

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英國,必道由蘇松【③】。蘇松者學士文人之淵藪【④】也。請攜【⑤】此書,贈之彼國人。或者余著書得傳于彼邦,亦仲平一幸也」。///余謹諾之。仲平則喜色揚揚溢【⑥】於面矣。是日,對斟【⑦】。兩人盡酒斗許【⑧】。及夜而散。///仲平名衡,安井氏,號息軒。住江戸,以經邃【⑨】行脩【⑩】【⑪】,久擅【⑫】名干世。其學以實事求是【⑬】爲主,以虛心察善爲務,絕無黨同伐異【⑭】之見。///余甚慕之,雖嚢爲同僚【⑮】,晨夕共事,而未嘗不以先生長者視之也。///其友鹽谷毅侯【⑯】文章冠關左【⑰】,爲仲平叙其書,仲平之人與學,可概見也。///鳴呼,仲平年已七十【⑱】矣。尚能從事編纂。螢窓雪案【⑲】,未嘗暫廢。知己難遇,賞音【⑳】甚寡。而欲傳其著書於海外。其志亦可悲矣爾。///迨【㉑】舟泊揚子江,即開行篋【㉒】,則《纂詁》一部安然無恙。恍如對故人,使余頓【㉓】慰旅况【㉔】也。///余意者清【㉕】國學士如林,然自科舉盛而四子五經,末注紛多,人各有成書,至如諸子古書,其畢生至精【㉖】【㉗】者,不甚【㉘】多見。然則如仲平是書,

注釈:
③蘇松:清朝が設置した蘇松大道。現在の上海市と、それに隣接する江蘇省蘇州市・太倉市、浙江省嘉興市・湖州市を合わせた地域を指す。
④淵藪:大勢に人や物資が集まる場所
⑤攜:底本は「携」字に作る。今正字体に改める。
⑥溢:あふれる
⑦對斟:サシ飲み。二人だけで向かい合って酒を酌み交わすこと。
⑧酒斗許:酒1斗ばかり。1斗は1升瓶10本。王安石〈後元豊行〉:「百錢可得酒斗許」(100銭出して酒1斗を手に入れた)
⑨邃:おくぶかい、とおい、ふかい。学問や道理に詳しい。
⑩脩:底本は「修」字に作る。今、正字体に改む。
⑪經邃行修:経学に精通していて、かつ品行方正である。教養がある人格者。「經明行修」と同じ。
⑫擅:ほしいままにする
⑬實事求是:客観的に事実にもとづき、真実を探求すること。清朝考証学のスローガン。ここでは息軒が朱子学者ではなく、考証学であることを示唆している。息軒本人は古学者を標榜していた。
⑭黨同伐異: 身贔屓をし、自分とは意見を異にする者を即座に攻撃すること。《後漢書・ 黨錮列傳》:自武帝以後,崇尚儒學,懷經協術,所在霧會,至有石渠分爭之論,黨同伐異之說,守文之徒,盛於時矣。
⑮囊:「袋」と同じ。ここでは巾着袋(財布)、すなわち給料を指す。「嚢爲同僚」は、幕府から支給される俸給が同じこと、つまり中村正直と息軒の間には親子ほどの年齢差があるものの、幕府組織内の地位は同格であったことをいう。
⑯鹽谷毅侯:鹽谷宕陰(1809-1867)、「毅侯」は字。朱子学者であるが、息軒の学友であり、ともに松崎慊堂に師事した。息軒とは文会という研究会を共済していた。宕陰は、幕末に、清国の魏源(1794-1857)が西洋の科学技術や世界地理を紹介した《海国図志》の校点本を刊行している。息軒が西洋の地理・天文に通じていたのは、あるいはそのためかもしれない。
⑰關左:「關」は長安の東に位置した「潼關」を指す。「關左」は潼關以東の地域。この文章は清国高官に向けて書かれたものなので、北京から見た東の果て、すなわち日本全体を指している。
⑱七十:慶應2年(1867)の時点では、数えで68歳であった。
⑲螢窓雪案:寝る時間を惜しんで勉強すること。日没後、夏は蛍の光で、冬は雪に反射する月明かりで読書を続けること。いわゆる「蛍の光、窓の雪」
⑳賞音:作品の真価を理解し、評論できる人物。「知音」と同じ。《呂覧・本味》の伯牙と鐘子期の故事にちなむ。
㉑迨:「いたる」、「およぶ」。
㉒行篋:旅行用のケース
㉓頓:「とみに」。にわかに、急に
㉔旅况:旅の有様、旅行の様子
㉕清:底本は正字体(月部が円)に作る。今、フォントの関係で「清」字に改める。以下、同じ
㉖精:底本は正字体(月部が円)に作る。今、フォントの関係で「精」字に改める。
㉗至精:非常に詳しいこと。
㉘甚だ~ず: 底本は「不甚」に作る。部分否定なので「甚だしくは」と訓ずるべきかとも思ったが、今は底本が「甚ダ」と送り仮名を付すのに従う。

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或亦清國學士之所不棄也。今日將謁清國貴官【㉙】,贈以此書。因記其由者如此。///日本慶應二年丙寅十一月二日【㉚】。書於吳淞江【㉛】舟中。

注釈:
㉙清國貴官:応宝時(1821-1890)を指す。応宝時は、当時は松江知府代理上海道台として、英国の上海租界との調整役を担っていた。一方で学者としては、《諸子平議》を著した兪樾(1821-1907)のグループに属していた。町田三郎〈力作の《管子纂詁》〉は、息軒と兪樾が応宝時を介して考証の論を戦わせていた可能性を指摘している。
㉚慶應二年丙寅十一月二日:1866年12月8日
㉛吳淞江:太湖の水源とする川。蘇州市の南部を東へ流れ、上海市の北方を通って黄浦江へ合流する。黄浦江は北上して長江の河口へ合流する。



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