安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉10

(10b)

原文-10a:昔者天艸之亂、艸賊群聚以謀其生、而非外有所恃也。然舉鎮西各國之兵、逾年始能平之。非以其必死生於法邪。邪敎之錮人心如是。

訓読-10a:昔者(むかし)天艸の亂は、艸賊群聚して以て其の生きんことを謀るも、外に恃む所有るに非ざるなり。然らば鎮西各國の兵を舉げて、逾年始め能く之を平らげたり。
 其の必ず法に死生するを以てするに非ざるか。邪敎の人心を錮(ふさ)ぐこと是くの如し。

意訳-10a:昔〔、嘉永14年(1637)〕に起きた「島原の乱」(天艸之亂)では、賊徒(艸賊)どもは〔原城に〕群れ集まって生き延びることを画策しましたが、国外(外)に〔援軍を〕頼る相手がいたわけではありませんでした。そういうわけで、九州(鎮西)各藩が討伐軍(兵)を挙げて、年を越して(逾年)、年初めにはこの乱を平定できました。

 〔とはいえ、島原の賊徒どもは〕必ず教義に生死をかけるという気持ち〔で籠城していたの〕ではなかったでしょうか、いや、教義に生死をかけていたのです。〔基督教という〕邪教が人民の心を塞ぐのは、このようです。

余論-10a:「島原の乱」の評価
 息軒は(というか、儒者は)人間を「士」と「民」を峻別する。両者の違いは、現代風にいえば”意識の高さ”である。”意識の高さ”は教育によって生まれ、血統は決定的な要因ではないが、現代に於いても「文化資本力」「親ガチャ」という言葉が存在する様に、教育機会の有無は家庭環境や実家の経済事情に大きく左右されるから、「血統」と「士」は同一視されがちだ。

 「士」と「民」を対照すれば、まず「士」は自ら律することができるが、「民」にはできない。ゆえに「士」は社会正義を実現するためであれば、命を捨てることもできるが、「民」にはできない。逆に言えば、「民」は利益や恐怖で誘導することができるが、「士」相手には通用しない。
 ところが、「島原の乱」を起こした「草賊」たちは、「民」であるにも関わらず、基督教の教義に殉じてみせた。驚くべきことだが、息軒は特に称賛することもなく、「邪敎の人心を錮ぐ」と切って捨てる。というのも、息軒《辯妄》に言わせれば、基督教は”殉教した者は天国へ行ける”と教えているので、結局、これも「死後の世界」を餌にした利益誘導に他ならないからである。
 一方儒教は、つまり息軒は、天国(極楽)・地獄といった、死後の世界を認めない。ヒトが死ねば、「魂魄」、すなわち精神と肉体を構成していた「氣」がバラバラに散じ、無に帰す。それを分かっていながら、命を賭して事にあたるからこそ、「士」の義挙は胸を撃つのである。


 補足しておくと、死後も構成要素である「氣」そのものは消滅せず、大気中を漂っている。言わば、砂場に作った砂の城が風化して姿を消しても、砂粒そのものは砂場に残っているようなものだ。そして、また誰かが同じ砂場で砂をかき寄せて新しく砂の城を作る時、再び素材として利用される砂粒もなかにはあるだろう。


 さらに補足すれば、仏教や基督教では、肉体を失った後も霊魂(意識)は残るので、地獄の責め苦に苦痛を覚える。《新世紀エヴァンゲリオン》でも、主人公の肉体がL.C.Lに溶け込んだ後も、意識そのものは依然としてエントリー・プラグの中に残っている。しかし、儒教では、ヒトは身体の感覚器官を通じて初めて外部刺激を受信できるので、死んで肉体が消滅してしまえば、仮に霊魂(意識)が残っていたところで、何も見えないし、何も感じない、天国も地獄も意味がない……と考える。
 逆に生まれる時のことを考えると、仏教や基督教ではあらかじめどこかに霊魂(意識)が独立して存在しており、それが胎児に宿る。言うなれば、ダウンロード・アプリのようなもので、死んでも、つまりハードウェア(肉体)が損壊して機能停止しても、全データ(意識+記憶)はクラウド(上位世界)へアップロードされ永久に残る。だが儒教では、霊魂(意識)は生前どこにもなく、両親が情を交わして母親が懐妊した時に、胎児の内に自然と芽生える。言わば自己プラグラムのようなもので、本体はスタンドアローンなので、死ねば、つまり本体(身体)が損壊して機能停止すれば、全データ(意識+記憶)は本体ごと永遠に失われる。

(10b)

原文-10b:不幸匪徒訌於内、黠虜應於外、其禍有不可勝言者焉。《傳》曰、「綿綿不絕、將尋斧柯」。

訓読-10b:不幸にも匪徒内に訌(も)めて、黠虜外に應ずれば、其の禍勝げて言ふべからざる者有り。
 傳に曰く、「綿綿として絕へず、將に斧柯を尋ねんとす」と。

意訳-10a:〔もし開国している現代で、〕不幸にも〔徒党を組んで略奪暴行を働く〕匪賊(匪徒)が国内で揉め事を起こし、〔西洋の〕悪賢い野蛮人(黠虜)どもが国外で呼応〔し、日本の基督教徒を救うという名目で軍事介入〕すれば、その災禍(禍)は言い尽くすことができないものがあるでしょう。

 言い伝え(傳)【※1】にも〔周文王の言葉として〕「細々としている内に絶ち切らなければ、やがて切り倒すのに斧が必要となる」とあります。〔今はまだ洋装を好む者がちらほら現れた段階ですが、放置すれば基督教徒となり、宗教紛争の火種となります。小さな芽の内に摘んでしまうのが賢明です。〕

補注:
※1 傳:出典には、以下のものがある。
 字句が一致するのは《説苑》と《孔子家語》だが、いずれも孔子が周朝の大廟に安置させた青銅像の背後に刻まれた文句とされる。《逸周書》では、商都に抑留中されていた周文王の言葉とされている。
a.《説苑・敬慎》:綿綿不絕,將成網羅;青青不伐,將尋斧柯
b.《孔子家語・觀周》:綿綿不絕,或成網羅,毫末不札,將尋斧柯
c.《史記・蘇秦列傳》:《周書》曰「綿綿不絕,蔓蔓柰何。豪氂不伐,斧柯」。
d.《逸周書・和寤解》:綿綿不絕,蔓蔓若何,豪末不掇,斧柯
e.《戰國策・魏策・蘇子為趙合從說魏王》:《周書》曰「綿綿不絕,縵縵奈何。毫毛不拔,斧柯」。

余論-10b:幕末の基督教観
 息軒は上段で「況んや洋夷は耶穌を以て國を奪ふの資と爲す」と言い、ここでは基督教を西洋の尖兵であり、対象国の人民を洗脳して暴動を起こさせることを目的とした工作機関と見なしている。息軒は、帝国主義列強が殖民地支配のためにアフリカやアジアで実施してきた「分割統治」(Divide et impera)を、正確に見抜いている。


 ここで息軒が西洋諸国とその基督教に対して向ける不信感は、現在、中国政府が香港デモ(2019)に際して欧米とその「普遍的価値観」(自由・平等・民主)に対して示した苛立ちに通じるものがある。
 現代日本人は「普遍的価値観」にすっかり慣れ親しんでいるので、中国政府にまったく共感できないし、彼らがいったい何をそんなに恐れているのか、とんとさっぱり分からない。2021年に入って立て続けに打ち出したアニメ・ゲームに於ける表現規制にいたっては、困惑すら覚える。
 だが、幕末の情勢と息軒の言説を通せば、思考の道筋を「理解」することは可能だろう。


 息軒は、「島原の乱」は西洋の軍事介入がなかったから即座に鎮圧できたが、開国している現在、もし日本人に基督教徒が増え、第二の「島原の乱」が起こった場合、西洋諸国が軍事介入してくる可能性を示唆し、トラブルの原因を芽のうちに摘んでしまうことを提言する。
 息軒の分析によれば、いまはまだ洋装(夷服)と外国語(夷語)を好む者がちらほら現れた段階なので、ここで洋装(夷服)と外国語(夷語)を禁ずれば、彼らの基督教化を未然に防げる。宗教紛争を鎮圧することを思えば、服装規制は遥かに容易で、かつ抜本的である。
 たかが洋装(夷服)や外国語(夷語)ぐらいで……という者は、問題の本質が見えていないのである。

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