安井息軒《睡餘漫筆・序》01

原文-01:
   《睡餘漫筆》序
 兼好法師がつれづれなるまゝ、机に向ひて思ふこと言はざらんは、腹ふくるゝなりと云はれしは、げにさる事にて、己七十六歳の春より、目を病て物を見ること叶はず、起きては食ひ食ひては臥すこと、二年の久しきを經れ共愈へず、つれづれのあまり日を暮らしかねて、七十七歳の冬思ひ立ち、字行の僅かに見ゆるをたよりとして、心と手にまかせ、思ひ出づることをヤタラ書きに書く。

意訳-01:
   《睡余漫筆》序

 かの兼好法師が〔《徒然草・第19段》において、〕”することが無くて手持ち無沙汰なまま、机に向かいながら思っていることを言わないのは、胸に何かつかえているようで気持ちが悪い”とおっしゃったのは、本当にその通りで、私は76歳の春(1~3月)ぐらいから、眼を病んでモノが〔はっきりと〕見えなくなり、〔それまで老骨に鞭打って進めてきた《毛詩輯疏》の校訂もできず、さりとて読書もままならず、少し眼を休めたほうがいいだろうということで、ただ〕起きては食べ、食べては寝る〔という無為な日々を送る〕こと、二年の長きにわたったけれども〔一向に眼は〕良くならず、することがなさすぎるあまり〔退屈で〕一日を暮らしかねて、77歳の冬(10~12月)に〔急に〕思い立って、文字の形がわずかに見えるのを頼りにして、心と手に任せて、思ひ付いたことをやたらめったら書きに書いた。


原文-02:
 日數積りて紙かずも重なりければ、幼けなきうま子どもの心得の片はしとも成ること有らんかとて、聚めて一巻の書となし、《睡餘漫筆》と名付けぬ。詞にあやなく、章のついでも立たざるは、思ひ出づるまゝに書きし故なり。尚餘命あらば、年毎に書き添ふることも有らんかし。

 明治八年十一月朔 七十七歳翁 安井息軒 土手三番町三番地の宅に書す

意訳-02:
 〔そうして、心に浮かんだ他愛もない事を退屈しのぎに書き出す(心に浮かぶ由無し事を、日暮らし、硯に向かひてそこはかとなく書きつくる)〕日数も積み重なって、〔書き散らした〕紙の枚数も積み重なったので、〔本来ならこんなものは、兼好法師が《徒然草・第19段》で「つまらない手遊びみたいなもので、破り捨てるべきものなので、他人に見せていいものではない(あぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず)」とおっしゃっている様にすべきだが、〕幼い孫たち〔が読めば、彼ら〕のたしなみや教養(心得)の一欠片になることもあるだろうか、と思って、まとめて一巻の書物にし、〔「寝起きに何となく思いついた事を書いた文章」という意味で〕《睡余漫筆》と名付けた。

 〔本書の〕文章(詞)に〔十分に練った〕修辞(あや)がなく、きちんとした章立ても〔全体としての構成も〕ないのは、思い浮かんだ〔ことを、浮かんだ端からその〕ままに書いたためである。もし〔私に〕さらに余命があれば、毎年〔1巻ずつ〕書き足すことができたらいいのだが〔、もう余命がないので無理だろう〕。

   明治8年(1875)11月1日 77歳男性高齢者 安井息軒。
                土手三番町三番地の自宅にて書く。

余論-01:執筆の動機と方針
 兼好法師の《徒然草》にならって、退屈しのぎに、心に浮かんだちょっとしたことを何となく書き連ねてみた……と、息軒はいう。息軒は、ただし思いつくまま書き出していったので、文章も練れていないし、章立ても全体としての構成もなく、他人には見せられる代物ではないが、千菊と小太郎という二人の孫たちが読む分にはいいかと思い、まとめて一冊の本にしたと謙遜する。
 が、さり気なく「孫たちのたしなみや教養の一欠片になることもあるだろうか」(うま子どもの心得の片はしとも成ること有らんか)と述べて、その内容の知的水準に自信を覗かせる。
 実際、読み物として普通に面白い。なぜ、これが岩波文庫や講談社文庫から完訳本が出版されないのか、不思議でしょうがない。息軒という、幕末維新期に学術界の頂点にたった儒者が、明治維新を経験したうえで執筆しているエッセイであれば、同時史料としての価値も高いと思うのだが。例えば、その日本人論などは福沢諭吉の日本人批判と対照されるべきではないか。

 ヒマだからブログ始めました、みたいなノリだ。ただ、書き手の教養が当代一級なので、読むだけで勉強になる。

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