安井息軒〈地動説〉02

原文-02:至漢儒見日躔之相距於二至也、謂地球升降於三萬里之中。於是乎始有地動之說。然其所謂動者、特動於靜中、而天之轉於上、地之止於下、未嘗異其名也。

訓読-02: 漢儒に至りて日躔の二至に相ひ距つるを見るや、地球は三萬里の中に升降すと謂ふ。
 是(ここ)に於けるや始めて地動の說有り。然れども其の謂ふ所の「動」とは、特だ靜中に動くのみにして、天の上に轉じて、地の下に止まるは、未だ嘗て其の名に異ならざるなり。

意訳-02:〔先秦時代には、「蓋天説」といって、天空(天)と大地(地)は互いに平行な平面で、天空は「天之北極」を支点として絶えず回転しているという宇宙観が一般的であったが、〕漢代の儒者(漢儒)に至って〔、張衡(78―139)が、「渾天説」といって、宇宙は鶏卵のような構造になっており、天空と大地はちょうど卵殻と卵黄の関係にあるという宇宙観を提唱して、それが普及したが〕、太陽の運行(日躔)〔する天球上の軌道〕が夏至と冬至で互い大きく離れているのを見て〔、一見すると南中高度の季節変化は太陽の軌道(黄道)が上下に移動することで生じているようだが、太陽の軌道(黄道)と五惑星や星座の相対位置に変化はなく、かつ天球は卵殻のように閉じた空間であって移動するようなものではないので、実は太陽を見上げるヒトの方が上下に移動しているしているのだと考え〕、“地球は〔季節の推移とともに、〕三万里の幅で上昇・下降している”と言った。

 ここにおいて〔東洋でも〕初めて地動説が生まれた。しかしながら、その〔「渾天説」〕が言う所の〔地球が〕「動く」とは、〔公転も自転することなく、〕 ただ静止した状態で〔上下に〕動くだけで、天空(天)が上方で回転して、大地(地)が下方で静止している〔とあくまで考えている〕点では、いまだにその〔「天」・「地」という〕名称〔の語源が象徴する「天動説」という宇宙観〕とは異なっていないのである。

補筆:謂地球升降於三萬里之中
 鄭玄(127-200)が、《尚書緯考霊曜》に注釈して「此是地之升降於三萬里之中也」と言っている。


余論-02:漢代の宇宙論の紹介
 息軒は《睡餘漫筆》で西洋天文学を紹介して「天文の説其理漢土渾天家の説に同じ」という。「渾天説」とは、後漢の張衡(78―139)が提唱した宇宙論で、宇宙の構造を鶏卵に例え、天空は卵殻で、大地は卵黄のようなものだと説明する。

 この卵殻(天空)は天之北極と天之南極を結んだ線を軸として一日一回転し、ヒトは制止した黄身の上から殻の内側を見上げている状態にある。実際の鶏卵は、内部が卵白で等しく満たされているが、渾天説では中空の卵殻の下半分にだけ水が溜まっており、その水面に卵黄が浮かんでいる(或いは水(大海)に浮かんだ卵黄(大地)を、水(大海)ごと卵殻(天空)が覆っている)状態だと考える。

 ただし閉じた天球の内側に太陽が固定されていると仮定した場合、太陽の南中高度(もしくは黄道)の季節変化についての説明が必要になる。漢代に書かれた《尚書》の緯書である《尚書緯考霊曜》には、

地有四遊。冬至地上北而西三萬里,夏至地下南而東復三萬里,春秋二分其中矣。地恒動不止,而人不知,譬如人在大舟中閉牖而坐。舟行而人不覺也。

地に四遊有り。冬至に地は上がりて北よりして西すること三萬里、夏至に地は下がりて南よりして東すること復た三萬里、春秋二分は其中たり。地の恒(つね)に動きて止まずして、人の知らざるは、譬ふれば人の大舟中に在りて牖を閉めて坐せば、舟行くも人覺らざるがごときなり。

大地には「四游」〔といって、東西南北四方向へ動くこと〕がある。大地は、冬至には高くなって北から西へ3万里動き、夏至には低くなって南から東へ動き、春分と秋分にはその中間に位置する。それにも関わらず〔台地の上で暮らす〕人々が〔乗っている大地が動いていることを〕知らないのは、たとえるなら大きな船の船内で窓を閉めて座っていれば、船が進みだしても〔船内で座っている〕人が気が付かないようなものだ。

とあり、大地が1年周期で移動していると説明した。後漢の鄭玄(127-200)は、《禮記注疏》によれば渾天説を支持していたというが、《尚書緯考霊曜》のこの箇所に注釈して、

地蓋厚三萬里。春分之時,地正當中,自此地漸漸而下。至夏至之時,地下遊萬五千里,地之上畔與天中平。夏至之後,地漸漸向上。至秋分,地正當天之中央,自此地漸漸而上。至冬至上遊萬五千里,地之下畔與天中平。自冬至後,地漸漸而下。此是地之升降於三萬里之中也。

地は蓋し厚さ三萬里。春分の時、地は正に中に當たり、此れより地漸漸として下がる。夏至の時に至りて、地は下がり萬五千里に遊び、地の上畔と天と中平たり。夏至の後、地は漸漸として上に向かふ。秋分に至りて、地は正に天の中央に當たり、此れより地は漸漸として上がる。冬至に至りて上がりて萬五千里に遊び、地の下畔と天と中平たり。冬至より後、地漸漸として下がる。此れを是れ地の三萬里の中に升降するなり。

大地は、思うに厚さ3万里である。春分の時、〔姿を見せている〕大地はまさに半分ほどにあたり、ここから大地は少しずつ下がっていく。夏至の時に至って、大地は1万5000里ほど下がりきって、大地の上部が水平線と同じ高さになる。夏至の後、大地はだんだんと上に向かっていく。秋分に至って、〔姿を見せている〕大地はちょうど中央までであり、ここから大地は次第に上がっていく。冬至に至って1万5000里まで上がりきって、大地の下部が地平線と同じ高さになる。冬至より後は、大地は〔再び〕ゆっくりと下がっていく。これこそ「大地が三万里の中で上昇・下降する」という意味である。

といい、大地は1年かけて振れ幅3万里で上下に振動していると説明した。
 たしかに、大地の上昇・下降によって南中高度(地上から見た太陽の高度)の季節変化は説明できるのだが、しかし、どうして太陽以外の天体、例えば北極星の高度が季節で変化しないのかは説明できない。息軒《睡余漫筆》も、このことを指摘している。

 一方、蓋天説は、天空(蓋天)と大地は互いに平行な平面(後に、渾天家の批判を受け入れて平行な曲面に修正し、古代バビロニアの石版に図示された二重円天井説のような構造へと変わった。)と説明する。
 この天空(蓋天)は「天の北極」(北極星周辺)を中心として地上から見て左回転し、太陽も「天の北極」を中心に大きな円軌道を描いて日周運動する。

 蓋天説に従えば、天空と大地は平行(=どこまでいっても交わらない)であるから、太陽も月も星も常に大地の上にあって、地平線の下に沈むということはあり得ない。したがって、西洋の天動説のように「太陽が大地の裏側へ回ると、夜になる」とは考えない。
 蓋天説における「夜」とは、太陽が日周運動の最中に観測点から見えないほど遠くに位置している状態である。つまり太陽は常に天空にあって松明のように大地の一部を照らしているが、その光は地上全域を同時に照らし出せるほど強くないため、例えば松明が遠ざかってその光が届かなくなれば周囲が暗闇に覆われるように、太陽(という松明)が観測点から遠ざかって日光が届かなくなった状態が夜なのである。当然、その間、地上のどこかが昼になっている。

 なお蓋天説が、太陽の南中高度が変化する原因をどう考えていたかといえば、太陽の円軌道の半径(天の北極点から太陽までの距離)が変化するためだ考えていた。すなわち太陽の円軌道は夏至には最小、冬至には最大となる。たまたま太陽の円軌道の最小半径が、天の北極点の直下点から観測点までの距離より大きかったので、太陽は常に観測点の南方の上空を横切るが、夏至には観測点の直上付近をかすめ、冬至にはかなり南方を通過することなる。

 また、蓋天説にもとづく《周髀算経》によれば、夏至の正午、高さ8尺の髀(ノーモン、水平な地面に垂直に立てた棒)の影の長さは1尺6寸であったが、そこから南へ1000里の地点では影は1尺5寸であり、北へ1000里の地点では影は1尺7寸であった、という観測結果から、南北へ1000里移動するごとに影が1寸ずつ変動するという法則を導き出し、観測点から南へ1万6000里の地点で影が消滅し、そこが太陽の直下だと予測した。

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