安井息軒〈文論〉07(完)

07-原文:若夫專求之末、必馳於機變之巧、浸淫乎邪徑。雖絢爛可觀、久之則其味索然竭矣。是之謂技。與侏儒俳優何擇。又安望其能與夫二者、並立於天地之間乎哉。

07-訓読:若(も)し夫れ專ら之を末に求むれば、必ず機變の巧に馳せ、邪徑に浸淫せん。絢爛觀るべしと雖も、之を久しくすれば則ち其の味索然として竭きん。是れを之れ技と謂ふ。侏儒・俳優と何をか擇ばん。又た安んぞ其の能く夫の二者と天地の間に並立せんことを望まんや。

07-意訳:もし〔文名を立てようと思う者が、「本」である道義(道)を省みず、〕専ら「末」〔に過ぎない修辞法(文)〕ばかり究めようとすれば、必ずうまく時機に応じて変化すること(機變)へと走って、次第に邪道(邪徑)へと染まっていくだろう。たとえ〔書き上がった作品が〕絢爛で見るべきところがあったとしても、長い時間が過ぎれば、その〔新鮮な〕味わいも散じて(索然)尽き果てる。これを小手先だけのテクニック(技)という。〔注目を集めようとして、珍妙な発言(=ボケ)を重ねる〕道化師(侏儒)や芸人(俳優)と何が違うのか、何も違わない。また、どうしてそんな作品で〔立言の評価を得て〕、立徳・立功の二つと一緒に「三不朽」として天地の間に並び立つことを望めようか、いや、望めない。

07:余論:息軒の文芸論の締めくくり。
 息軒の言わんとするところは、やはり道義(道)という本質を疎かにして、目先の修辞法(文)に走ると、たとえ今の時代に合った作品は作れても、時代の変化を越えて永遠に語り継がれるような普遍性を備えた作品は作れない。
 それは、ウケを狙って必死でボケを連発する芸人や、「再生回数」を稼ごうとして犯罪まがいの騒動を起こす底辺You tuberと変わらない。もともと「伝えたい内容」が先にがあって、それから広範囲に向けて情報発信できるTVや、一般人が即時的に発信できるSNSという「伝える手段」が存在するのに、いつの間にか「伝える事」自体が自己目的化し、「伝えたい内容」ではなく、何でもいいから「大勢の人が受け取ってくれそうな内容」(=視聴率や「いいね」や登録者数を稼げそうなコンテンツ)を狙って作ろうとするようになり、時流の変化を追いかけるようになる。
 そうして完成したウケ狙いの作品は、たとえ一時的にバズったとしても、結局は一過性のもので、たちまち忘れ去られてしまう。けっして通時性の価値を持ち得ない。その程度の作品で、立徳・立功とともに「不朽」の一つに並ぼうというのは、無理がある。
 不朽のコンテンツを目指すのなら、時代の変化に左右されない、普遍性を目指さなければならないのだ。

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