安井息軒〈辨妄・五〉03

(三)

原文-03:積灰生蠅、腐水生鱗、以此推之。生民之初、蓋亦氣化耳。其稟陽氣者爲男、稟陰氣者爲女。男女既判、各相配以蕃其類。物皆然。人何獨不然。
 其所以生爲男女、則聖人嘗於大易一言之。曰、「『乾』,天也,故稱於父。『坤』,地也,故稱乎母。『震』一索而得男,故謂之長男。『巽』一索而得女,故謂之長女。『坎』再索而得男,故謂之中男。『離』再索而得女,故謂之中女。『艮』三索而得男,故謂之少男。『兌』三索而得女,故謂之少女。」
 其於人、以父母齒及受胎之月爲三爻。純陽純陰、則勿論耳。一竒二偶、則得男。一偶二竒、則得女。其當男而得女、當女而得男者,是謂天人之變,必不能成長。或三歲,或六歲,未有能過十二歲者,天之數也。


訓読-03:積灰蠅を生じ、腐水鱗を生ず。此を以て之を推せば、生民の初めも、蓋(けだ)し亦た氣化のみ。其れ陽氣を稟くる者は男と爲り、陰氣を稟くる者は女と爲る。男女既に判(わか)れ、各々相ひ配して以て其の類を蕃(しげ)くす。物皆な然るに、人何ぞ獨り然らざらん。

 其の生まれて男女と爲る所以は、則ち聖人嘗て大易に於ひて之を一言せり。曰く、「『乾』は、天なり。故に父と稱す。『坤』は、地なり。故に母と稱す。『震』は一(はじ)めに索(もと)めて男を得、故に之を長男と謂ふ。『巽』は一(はじ)めに索(もと)めて女を得、故に之を長女と謂ふ。『坎』は再び索めて男を得、故に之を中男と謂ふ。『離』再び索めて女を得、故之を中女と謂ふ。『艮』は三たび索めて男を得、故に之を少男と謂ふ。『兌』は三たび索めて女を得、故に之を少女と謂ふ」と。
 其の人に於けるや、父母の齒(よはひ)及び胎を受くるの月を以て三爻と爲す。純陽純陰なるは、則ち論ずる勿きのみ。一竒二偶なれば、則ち男を得。一偶二竒なれば、則ち女を得。其の當に男なるべくして女を得、當に女なるべくして男を得る者をば、是れ天人の變と謂ひ、必ず成長すること能はず。或ひは三歲、或ひは六歲、未だ能く十二歲を過ぐる者有らざるは,天の數なり。


意訳-03:長年堆積した灰(積灰)はコバエを生みだし、長い間たまった水(腐水)はサカナ(鱗)を生みだす。〔要するに、無生物が生物を生じることは、自然界では珍しくない。〕これにもとづいて推測すれば、ヒト(生民)の始まりも、思うに〔自然発生的であり、諸物と同じく、自然界に遍在する万物の構成単位たる陰陽の〕「氣」が変化したに過ぎない。

 〔遍在する陰陽の「気」が集合して、ヒトが自然発生した時、〕そのうち陽気を受けた者が〔最初の〕男性となり、陰氣を受けた者が〔最初の〕女性となった。男性と女性に分かれ〔て生まれ〕た後、それぞれ互いに配偶して〔情交することで、人類という〕その種を増やした。〔キリスト教は万物のなかでヒトだけを特別扱いするが、〕万物がみなその様〔にして自然発生してきたわけ〕であるのに、ヒトだけがどうしてそうでない〔、神がわざわざ己の姿に似せて作ったとか、「禁断の果実」を食べたから産褥に苦しまねばならなくなったなど〕ということがあろうか、いや、ヒト〔の発生過程〕も万物と同じはずだ(反語)。
 その男女に分かれて生まれてくる理由は、聖人孔子がその昔《周易・説卦伝》(大易)においてコメント(一言)している。〔孔子は〕

「『乾』卦は天を象徴する。だから「父」という。『坤』卦は地を象徴する。だから「母」という。〔《易》の卦は下から上へ積み重ねていくが、八卦でいうと〕『震』卦は〔三つの爻のうち、一番下の〕 初爻を求めて男性〔を象徴する陽爻〕を得たので、「長男」という。『巽』卦は 初爻を求めて女性〔を象徴する陰爻〕を得たので、「長女」という。『坎』卦は〔三つの爻のうち、真ん中の〕二爻を求めて男性〔を象徴する陽爻〕を得たので、「中男」という。『離』卦は二爻を求めて女性〔を象徴する陰爻〕を得たので、「中女」という。『艮』卦は〔三つの爻のうち、一番上の〕三爻を求めて男性〔を象徴する陽爻〕を得たので、「少男」という。『兌』卦は三爻を求めて女性〔を象徴する陰爻〕を得たので、「少女」という」

と言っている。

補注:八卦の構成
天:乾(三陽)・☰・父
地:坤(三陰)・☷・母
男性(一陽ニ陰):震・☳・長男、坎・☵・中男、艮・☶・少男
女性(二陽一陰):巽・☴・長女、離・☲・中女、兌・☱・少女
 ヒトでいうと、父母の年齢(齒)と妊娠(受胎)した月で三爻を作る。〔例えば、三つとも奇数もしくは偶数の〕純陽・純陰であれば、〔それぞれ男児・女児ができるのは〕言うまでもない。一つが奇数で二つが偶数であれば、〔震・坎・艮のいづれかなので〕男児ができる。一つが偶数二つが奇数であれば、〔巽・離・兌のいづれかなので〕女児ができる。〔この法則に照らして〕男児になるはずなのに女児ができ、女児になるはずなのに男児ができることを「天人の變」といい、〔そうして生まれた子供は〕絶対に成人できない。ある者は三歲、ある者は六歲〔で死に〕、十二歲を過ぎる子供がいないのは、寿命(天の數)である。

余論:息軒の自然発生説と男女の産み分け方法
 息軒は、コバエが自然発生することを根拠に生命の自然発生説を唱え、最初の人類も、コバエ同様、自然発生したと推測する。これは、キリスト教の「ヒトは神によって作られたのだから、神に従うべきだ」という教義に反駁すると同時に、「ヒトは父母によって作られたのだから、「孝」を尽くすべきだ」という主張の根拠にもなっている。
 なおキリスト教徒は儒者の”身体髪膚これを父母に受く”に対して、”ヒトは肉体は父母により与えられたが、霊魂は神(GOD)により与えられた。肉体<霊魂なので、父母<神(GOD)。よって孝よりも信仰を優先すべき”という論陣を張った。仏教も”不滅の霊魂が、輪廻転生によってたまたま今の肉体に宿っているだけで、親子関係など現世限りの一時的な関係に過ぎないので、拘泥する価値はない。出家して霊魂の救済を目指すべき”という論陣を張る。
 ゆえに息軒は儒者として、〈辨妄・二〉において霊魂と肉体の関係に言及し、空っぽの肉体に外部から霊魂がインストールされるのではなく、肉体の内で霊魂が自動プログラミングされるのだ、肉体あっての霊魂であり、肉体と別に霊魂が存在することはない”と説明し、肉体=霊魂だから父母に孝を尽せばよく、神(GOD)の存在を想定する必然性はないと主張する。

 さて、現代の科学水準から見れば、息軒のコバエを根拠とする主張は疑似科学に類するが、同様の根拠にもとづく自然発生説は、キリスト教の影響力が強い西洋にあっても、19世紀半ばまでそれなりに有力な学説であった。
 ルイ・パスツール(1822-1895)が「白鳥の首フラスコ」を用いた実験によって自然発生説を否定し、”生命は、生命からしか生まれない”ことを定説化するのは、ようやく1861年、すなわち明治維新(1868)の7年前のことである。
 ただコバエは自然発生しないとしても、現代科学でも”地球上で最初の原初生命体は無機物から誕生した”と考えられており、自然発生説は無効ではない。

○ 

 息軒の高弟松本豊多の標注によれば、夫の年齢が初爻、妊娠した月がニ爻、妻の年齢が三爻に対応する。だから、例えば夫が21歳、6月に妊娠、妻が18歳だとすれば、奇数-偶数-偶数、陽-陰-陰なるので、震卦( ☳)、つまり男児が生まれる。夫が26歳で妻が20歳、5月に妊娠したとすれば、坎卦(☵)になるので、やはり男児が生まれるという。
 この男女の産み分け理論が、単に《周易・説卦伝》の一節を解釈しただけなのか、息軒が本気でそう信じていたのか、判然としない。息軒思想を「明治近代思想の前身」と位置づけたい報告者としては、「単に易伝を解釈しただけで、実際にこんな非科学的なことを信じていたわけではない」ということにしてしまいたい誘惑に駆られるが、自重するべきだろう。
 たぶん、息軒は上記の理論にもとづく男女の産み分けを推奨していたのではないかと思う。また息軒は二男三女を設けたが、次女と三女は夭逝している。息軒は「天人の変」という理屈で、娘二人の死を受け入れていたのではないだろうか。
 なお息軒は、五経の内《周易》だけは注釈書を書いていない、また陰陽二気論に立脚するが、五行説は支持しない。(陰陽をとって五行をとらないのは、古学者の特徴。)

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