安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉01

01

原文-01:
  〈擬乞禁夷服疏〉
 臣聞禮者國之幹也、政之所由而立也。蓋人心之動、從物而移、盪焉而無之制、必失其正。聖人有憂之、敎之義、以直其內、制之禮、以方其外。於是威儀章服之制興焉。貴賤有事、長幼有序、拜跪有節、升降有數、內外交養、以定其心。故刑政可得而施也。

訓読-01:
  〈夷服を禁ずるを乞ふの疏に擬(なぞら)ふ〉
 臣聞くならく“禮は國の幹なり、政の由りて立つ所なり”、と。
 蓋し人心の動くや、物に從ひて移り、盪(ほしいまま)にして之を制する無くんば、必ず其の正を失ふ。聖人之を憂ふること有り、之に義を敎へて、以て其の內を直(なお)し、之に禮を制して、以て其の外を方(ただ)す。
 是(ここ)に於ひて威儀章服の制興る。貴賤に事有り、長幼に序有り、拜跪に節有り、升降に數有り、內外交(こもご)も養ひ、以て其の心を定む。故に刑政得て施すべきなり。

意訳-01:
  〈擬乞禁夷服疏〉(上奏文に擬えて、洋装禁令を求める)
 私はこう聞いております、“社会のルール(禮)〔が存在し、それがきちんと守られているの〕は、国家共同体(國)の根幹であり、政治〔が効率的に機能するための前提条件であり、そ〕の立脚点である”と。

 思いますに、ヒトの欲心(心)が動く場合、それは〔外在する〕事物〔から受けた刺激〕に従って〔、反射的に〕動くもので、〔外部刺激は無尽である以上、欲心も尽きるということはありませんから、もし欲心の〕欲するままに〔自由に欲望を追求〕させて制限しなければ、必ずその中正さを失ってしまいます。〔文化英雄たる〕聖人はこのことを憂えて、人々に社会正義(義)を教えて、そうしてその精神(内)をまっすぐにし、人々のために社会的ルール(禮)を制定して、そうしてその行動(外)を正しました。

 こうして〔、社会ルール(禮)の一環として、〕服装の階級別規定(威儀章服)ができあがりました。身分(貴賤)にはそれぞれ役割(事)ができ、年齢(長幼)には序列ができ、礼拝(拜跪)の仕方には節度ができ、宮殿や廟を出入り(升降)には規則ができて、ヒトは〔社会正義(義)と社会的ルール(禮)を通じて、〕精神(内)と行動(外)を同時にこもごも修養し、そうしてその欲心(心)を落ち着かせます。〔人々の欲心(心)が落ち着いてるの〕ですから、刑罰と善政は、当然〔効果的に〕施行できるはずです。

余論-01:「禮」の意義
 本篇は、「洋装禁止令」を提案する。

 そもそも個人がどんな服装をしようが、それによって他者の生命や財産が直接脅かされるわけではなく、保護すべき被害者が存在しない以上は、これを法で規制する必要性は薄い。本段はその理由を説明するべく、まず社会的ルール(禮)ができた理由から説き起こす。

 息軒は、欲望を外部刺激に対する反射と捉える。
 確かに、例えば、たまたま他人の裸体を目にして劣情を覚えたとして、この劣情は意志決定の結果とは言えないだろう。「裸体」を目にして反射的に「ウホっ、いい身体」と思うのは、熱湯に触れて反射的に「熱っ」と思うのを防げないのと同様、精神内部の作用であっても自由意志の制御下にはない。(蓋し人心の動くや、物に從ひて移り。

 もし欲望を「反射」と考えるなら、欲望を防ぐためには、欲望を喚起する事物を周辺から排除するしかない。仏教寺院が女人禁制であったり、イスラム教が女性に夫と家族以外の男性に姿を見せないよう命じるのも、この考えにもとづく。
 これが非科学的かと言えば、そうでもない。現代医学でも、依存症治療は、依存対象(アルコール、薬物、ポルノ、スマートフォン)を身近から遠ざけることから始める。

 一方、基督教では「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(《マタイの福音書》5-27.28)といい、劣情を覚えること自体を罪とし、その責任を問う。

 儒教はと言えば、欲望を「反射」とするものの、否定はしない。情欲が文芸を生むこともあるからだ。かといって放恣を許すことも勿論ないが、行動をコントロールするよう提言する。

 ただし、他人の裸体に対して反射的に劣情を覚えてしまうことと、その劣情を満たすために行動を起こすことは、全く別の問題である。行動には制限をかけることができるし、制限をかけなければバランスを失う。(盪(ほしいまま)にして之を制する無くんば、必ず其の正を失ふ。
 聖人ーーラング謂う所の「文化英雄」ーーはそれを心配して、社会的ルール(禮)を定め、人々が欲望のままに行動しないように、一定の歯止めをかけようとした。(聖人之を憂ふ有り、(略)、之に禮を制して、以て其の外を方す。
 かくして、諸々の社会的ルール(禮)ができた。これらは罰則を伴わず、強制力も弱い。だが、社会的ルールが存在し、きちんと守られているという社会情勢であって、刑法も効率的に機能するのである。(貴賤に事有り、長幼に序有り、拜跪に節有り、升降に數有り、內外交も養ひ、以て其の心を定む。故に刑政得て施すべきなり
 「威儀章服」というドレスコードも、そうした社会的ルール(禮)の一つである。

 コロナ禍による外出控えが続くなか、多くの飲食店は感染対策を徹底することで、危機を乗り越えようとしている。
 ある有名人が、マスク未着用を理由に飲食店から入店を拒否されたとSNSに投稿したことをきっかけに、そのファンがその店に嫌がらせを仕掛けて休業に追い込むという事件があった。有名人の言い分は、”食べるときにはマスクを外すのに、飲食店が客に店内マスク着用を求めるのは無意味だろう”というものだった。

 思うに、コロナ禍において、マスクはもはやドレスコードである。飲食店が客に対して入店時にマスク着用を求めるのは、高級料理店が客に上着着用を求めるのと同じである。店の設定したドレスコードに納得がいかないなら、利用しなければいいだけのこと。感染防止効果の有る無しを云々するのは、ナンセンスだと思う。
 私だって、公共の場でマスクをする程度のドレスコードすら守れないような人間とは、コロナに関係なく、同席したくない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?