安井息軒《睡餘漫筆》

解題

 《睡餘漫筆》は、安井息軒(1799-1876)が晩年に和文で執筆したエッセイ集である。なお、本報告は明治36年(1903)に成章堂より刊行された安井息軒《睡餘漫筆》を底本とする。

 本書の成書時期は、〈睡餘漫筆序〉に「七十七歳の冬思ひ立ち」て書き始め、「日數積りて紙かずも重なりければ、幼けなきうま子どもの心得の片はしとも成ること有らんかとて、聚めて一巻の書となし、睡餘漫筆と名付けぬ」とあり、さら〈序〉の奥付に「明治八年十一月朔 七十七歳翁 安井息軒 土手三番町三番地の宅に書す」とあることから、明治八年(1875)10月から書き始め、一ヶ月足らずで1巻分を書き上げたものとみえる。
 ただし《睡餘漫筆》は全3巻であり、序文に「尚餘命あらば、年毎に書き添ふるとも有らんかし」とあるので、2巻と3巻は息軒最晩年の明治9年(1876)に加筆されたものかもしれない。

 執筆の動機は、視力の低下である。
 息軒は幼少期に天然痘で右目を失い、ずっと隻眼で過ごしてきたが、長年に渡る読書で目を酷使しすぎたせいでもあろう、残る左目の視力も低下していったらしい。息軒最後の高弟松本豊多は《漢文大系四書辨妄》において、明治5年に刊行された《論語集説》に誤刻が多いのは、息軒の視力低下が原因だと断じている。
 〈序〉によれば、「己七十六歳の春より、目を病て物を見ること叶はず、起きては食ひ食ひては臥すこと、二年の久しきを經れ共愈へず」とあり、明治7年(1874)初頭に眼疾(白内障だろうか?)でモノが見えなくなったという。これにより、息軒はそれまで進めてきた《毛詩輯疏》の校訂を、《小雅》を残して断念するに至っている。そのまま食っちゃ寝の生活を二年ほど過ごした後、「つれづれのあまり日を暮らしかねて」、急に思い立って「字行の僅かに見ゆるをたよりとして」エッセイを書き始めたのだという。

 本書の構成は、序文の冒頭で「兼好法師」を引き合いに出していることから察するに、本書は兼好法師《徒然草》のスタイルを意識していると思われ、統一的な主題や全体の章立てや構成は認められない。〈序〉にも「詞にあやなく、章のついでも立たざるは、思ひ出づるまゝに書きし故なり」という。

 本書のトピックは、儒学や経学、日本史や中国史にまつわる話、日本語や外来語の語源、飲食や身の回りの事物に関することなど、硬軟織り交ぜて多岐にわたる。〈序〉によれば、「心と手にまかせ、思ひ出づることをヤタラ書きに書く」「思ひ出づるまゝに書きし故」とあり、思いつくまま、ただ書き連ねただけだというから、その博覧ぶりには敬服せざるを得ない。

凡例

一、本稿は、安井息軒《睡餘漫筆》の原文と現代語訳、ならびにその解説である。
一、取り上げるのは、一部だけである
一、底本には、安井息軒《睡餘漫筆》(成章堂・1903年)を用いる。また黒木盛幸の翻刻本(安井息軒記念館)を参照とする。
一、「原文」の字体は、フォントの許す限り正字体で統一する。底本の俗字・異体字は、正字体に改める。
一、「意訳」(現代語訳)は、原文と対応するよう心がける。補足説明は〔 〕でくくって訳の一部として読めるようにし、かつ〔 〕部分を隠せば訓読(書き下し文)の直訳となるよう工夫する。
一、段落分けは、底本にはないため、訳者が文脈から判断して行う。段落の境界は /// で示す。
一、底本は読点(、)のみで句点(。)がないため、訳者が文脈から判断して、一部の読点を句点に改める。



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