安井息軒〈星占説〉01

原文-01:天保癸卯、二月甲戌朔、越七日庚辰、初昏。長嘯而仰、見孽氣於西南。狀如一匹練、色潔如雪。竊謂上冬過暖愆陽冐蹷、既而爲春寒所壓、鬱不得昇、求路而出。其勢盛、如呼吸之見氣於凝寒之時。遂鍾爲此象耳。法當地震若雷鳴而散。
 越三日壬午、地震、雷亦發聲者再。而氣猶不散。浮言如蚊。
 越九日庚寅、適晴、仰觀半時、始得詳其状矣。首越畢二度、終於參左右足間。
 後數日、其色漸淡、其幅漸狹、光芒過參之左足。察其行、速於日三度許。

訓読-01:天保癸卯、二月甲戌朔より、越して七日庚辰、初昏。長嘯して仰げば、孽氣を西南に見る。狀は一匹の練の如く、色潔(きよ)きこと雪の如し。
 竊(ひそ)かに謂へらく“上冬は過暖にて愆陽して冐蹷し、既にして春寒の壓する所と爲れば、鬱として昇るを得ず、路を求めて出でたり。其の勢盛んなること、呼吸の氣を凝寒の時に見ゆるが如し。遂ひに鍾(あつ)まりて此の象を爲すのみ。法として當に地震(ふる)へ若雷(わかいかづち)鳴りて散じるべし”と。
 越して三日壬午、地震(ふる)へ、雷も亦た聲を發すること再びす。而るに氣猶ほ散ぜず。浮言蚊の如し。
 越して九日庚寅、適として晴れ、仰觀半時して、始めて詳しく其の状を得たり。首(はじ)めは「畢」を二度越え、「參」の左右の足の間に終はる。
 後數日して、其の色漸(ようや)く淡く、其の幅漸(ようや)く狹く、光芒「參」の左足を過ぐ。其の行くを察するに、日より三度許(ばか)り速し。

意訳-01:天保14年(1843)癸卯、旧暦2月1日甲戌から2月7日庚辰にかけて、黄昏時。詩歌を吟じながら空を仰ぐと、邪気(孽氣)〔が天高く立ち昇るの〕を西南方向に見た。形状は一疋(24m×0.35m)の練絹の〔反物を広げた〕ようで、色の白さは雪のようだった。

 内心密かに次のように考えた。“〔昨年10月の〕初冬は暖かすぎて(過暖)陽気が異常に盛んで(愆陽)土が柔くなっていた寒気を覆っていた(★冐蹷)が、すでに〔暦の上では春を迎えたものの、今度は陽気がここ数日の〕寒さのぶり返し(春寒)に圧されて、〔地下に〕鬱屈して立ち昇ることができず、〔その充満した陽気が〕抜け道を求めて〔天空に向かって勢いよく〕吹き出したのだろう。その〔地表に吹き出た陽気が、一般人にも視認できるほど〕勢いが盛んなのは、ヒトが呼吸する息(氣)が厳寒(凝寒)の時に〔白く〕見えるようなものだ。〔鬱屈した陽気が〕最後には一ヶ所に集まっ〔て吹き出し〕てこのような現象を起こしたすぎない〔。これは異常ではあっても、あくまで自然現象であって、けっして災害や争乱の凶兆といった神秘的現象などではない〕。〔陰陽の〕法則からいえば、地震が起こって春雷(若雷)が鳴れば、〔地下にこもった陽気が大気中に発散されるので、この西南に立ち昇る白い邪気も〕消散するだろう”と。

補注:
★冐蹷:未詳。底本に訓点なし。今は”寒気を覆う”と訳す。
 「蹷」は、《呂氏春秋・重己》に「室大則多隂、(略)、多隂則」(室大なれば則ち隂多く、(略)、隂多ければ則ちす)とあり、後漢の高誘が「蹷、逆寒疾也」(蹷は、寒疾を逆(むか)ふるなり)と注釈している。「寒疾」とは風邪であり、“部屋が広いと、風邪を引きやすい”ということである。
冐蹷:底本の「蹷」字は恐らく「橛」字の誤り。当改。「冐橛」は、春が来て土が柔らかくなること。恐らく「橛」字が「蹷」の異体字「蹶」と字形が似ていることにより、誤刻す。

 さらに三日目の〔2月9日〕壬午、地震が発生し、雷も二度鳴った。しかしながら〔西南の空に立ち昇る白い〕邪気(氣)は依然として散らない。〔人々がこの邪気についてそこらでぺちゃくちゃ喋る〕噂話(浮言)は蚊の羽音のよう〔に五月蝿く耳障り〕だ。

 九日目の〔2月17日〕庚寅、折よく晴れ、〔西南の空を〕仰ぎ見て観察すること1時間(半時)、はじめてその詳しい形状がつかめた。〔それで、白い邪気の正体が、大地から屹立する「氣」の柱ではなく、巨大な彗星の尻尾であることが分かった〕。〔白い邪気の〕始まりは〔黄道12宮でいう牡羊座牡牛座、28宿でいう〕「畢」を2度越えたところからで、〔星座で言うオリオン座、28宿でいう〕「參」の左右の足の間〔まで伸びて、そこ〕で終わっていた。

 その後数日して、その色がだんだんと淡くなり始め、その幅も次第に狭まり、その光芒は〔星座で言うオリオン座、28宿でいう〕「參」の左足を過ぎた。その〔天球上での〕運行について観察したが、太陽より三度ほど速かった。

余論-01:「1843年の大彗星」の目撃証言および分析
 天保14年(1843)2~4月にかけて世界中で観測された「1843年の大彗星」(C/1843 D1)の様子を描写する。本篇のこの部分は、明治政府が編纂した日本唯一の官撰百科事典《古事類苑》にも抄録されている。


 「1843年の大彗星」は、南半球では頭部分を観測できたが、北半球ではしっぽ部分しか観測できなかった。それで、息軒も初めのうちは彗星とは思わず、西南の大地から立ち昇る「氣」の柱と考えたらしい。

 東洋の兵法書や天文占には、「雲氣」を観測して、天候や戦闘の趨勢を予測するとあるし(兵法家や占者には「雲氣」が見えることになっていた)、《春秋公羊伝・哀公14年傳》には、孔子が周王朝の宮殿に植えてある三本の槐樹の間と南方の楚国沛県豊邑の地に赤烟の「氣」が立ち昇っているという”夢”を見て、調査に赴いた豊邑で麒麟を目撃したことから、280年後に漢の高祖劉邦がこの地で挙兵することを予見した云々とあるため、息軒も目前の天文現象を「氣」と結びつけて理解しようとしたのだろう。

 もし世が世なら、”西南の地より昇った白い「氣」の柱は、戦争と殺戮を象徴する金徳の高まりを示しており、まさに西国の薩長土肥による倒幕、戊辰戦争の勃発、そして続く明治新政府の建設を兆しであった……”などと、まことしやかに語られたかもしれない。

 本段では、当時の息軒が考えた、白い「氣」の正体とその発生原因とが紹介されている。
 かいつまんで言えば、白い「氣」の柱は地下に充満した「陽氣」が間欠泉のごとく地表に勢いよく吹き出したもので、それがはっきりと視認できるのは、寒い日の朝には吐く息が白くなるのと同じ原理である。
 その冬は暖冬だったことから、「陽氣」が例年になく強まっていたところへ、急な寒さのぶり返しで「陰氣」に蓋をされたような形となり、行き場を失った強い「陽氣」が、火にかけた鍋のフタを蒸気が押し上げる要領で、一ヶ所から吹き出したのである。

 そのうえで息軒は、遠からず地震と春雷が起こると予測する。

 以下の説明は報告者の憶測を交えたものである。

 地震と雷は、陰陽五行説では「木徳」に配当され、「木徳」は陰陽で言えば「陽」に属する。息軒は陰陽二気論の信奉者で、五行説には懐疑的な姿勢をとっているので、陰陽論にもとづいて息軒の思考をトレースしてみたい。

 樹木は地中の「陽氣」を吸い上げて上空へ放出する。早朝の森林を覆う朝霧は、現代人にとっては空気中の水分が明け方近くの気温低下によって凝結したに過ぎないが、古代人にとっては樹木が地中から吸い上げて空中へ放出した濃厚な「陽気」そのものである。
 一般的に、樹木が平地に生えようが斜面に生えようが、常にまっすぐ「天」に向かって伸びるのは、陰陽論的には、上へ上へと向かう「陽」の指向性ゆえである。そして周辺の「陽氣」を集めて一際高くなった樹木は、時に、内部に溜め込んだ「陽氣」を轟音とともに一気に天空へ射出する。これが雷である。
 現代人は、雷というものは、上空で発生して地上の樹木めがけて落ちてくるものだと認識しているが、陰陽五行説では、樹木内にチャージされた「陽氣」が轟音とともに樹木を割って上空めがけて一瞬で駆け上っていくものだと理解しているのである。ゆえに雷は「木徳」に属する。
 古代人は、落雷に遭った樹木がブスブスと焦げているのを見て、「なるほど”陽 極まりて、木 火を生ず”とは、このことか」と納得したことだろう。

 また大地は「陰氣」の集合体であり、「靜」の性質を持つ。その動かないはずの大地が揺れ動くのが地震であるが、そもそも動くのは「陰氣」の特性と矛盾する。であれば、これはもう「陽氣」の仕業とするより仕方がない。
 樹木が吸い上げ切れなかった「陽氣」が、その「動」の性質を以て、大地を揺さぶるのである。したがって、というべきか、その地に樹木が多く植わっていれば、地中の「陽氣」がある程度消費されるので、地震が起こっても地割れや崖崩れは比較的防げる。
 ちなみに現代人は、樹木の根が表層の土壌を固定化することで地割れを防いでいるとか、雨水による土壌流出や土石流の発生を防いでいると理解しているが、五行説では「木克土」なので、たとえば堤防などに樹木を植えるのはあまりよろしくない。

  話を戻すと、西南に立ち昇る白い邪気は、地中に初冬以来の過剰な「陽氣」が溜まっていることを示している。過剰な「陽氣」が地震と雷を起こすのは、陰陽二氣論にあっては、自然の摂理である。そして、地震と雷によって地中の「陽氣」が消費・発散されれば、この白い邪気も姿を消すだろう……と、息軒は考えたのであろう。

 はたして三日後、息軒の予想通り地震と春雷が起こる。だが、西南の白い「氣」の柱は消えない。その正体は彗星の尾なのだから、地震や雷で消えるはずもない。

 さらに九日後、晴れ間が生じたことで、息軒もつぶさに白い「氣」を観察することができ、そうして、恐らくそこで、それが巨大な彗星の尻尾であることに気づく。
 かくして息軒は、天文学に則って、彗星の尾が位置する座標を天球上に示そうとする。簡単にいえば、彗星は牡羊座牡牛座の方角に見えた。彗星の尾は彗星の核が太陽に接近するにつれ、太陽と正反対方向に伸びるので、旧暦2月(天保14年2月1日=西暦1843年3月1日)ごろであれば、太陽は黄道12宮の牡羊座付近に位置するので、その方向に尻尾が見えるのは、まあ妥当である。

 本段が示すのは、近世の人間は我々とは異なる宇宙に生きているということである。息軒とて例外ではなく、あくまで当時の科学知識にもとづいて、目前の現象を理解しようと努める。当時は、生死に関わる医学でさえ、陰陽五行説をベースに構築されていたのだから、ここで息軒が陰陽論にもとづいて分析・予測するのは当然のことである。
 そもそも西洋でも、19世紀までアリストテレス以来の四元素(土・火・水・空気)が広く支持されていた。「近代化学の父」と呼ばれるラヴォアジエが《化学命名法》(1787)を出版して元素説が有力になるのが18世紀、それを背景にドルトンが原子説の論文を刊行するのが1805年のことである。日本への伝来は、薩長両藩がロンドンに留学生を送り込む1863年を待たねばならない。


 本段で抑えておくべきことは、ベースとなる科学理論がどうあれ、息軒が「西南に白い「氣」が立ち昇る」という現象を、あくまで自然現象と認識し、その範疇で説明を終えている点である。息軒は、これを人間社会の出来事と関連付けて解釈することはしない。それが偶然ではなく自覚的であることは、後段においてより一層はっきりと示される。

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