安井息軒〈地動説〉01

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原文-01:天者轉也、象轉於上。故謂之天。地者止也、形止於下。故謂之地。故凡動者天之徒也、而屬之陽。靜者地之徒也、而屬之陰。陰陽之義・動靜之理、聖人之所定名、而後人之所循守也。

訓読-01:天は「轉」なり、上に轉ずるを象る。故に之を「天」と謂ふ。地は「止」なり、下に止まるを形どる。故に之を「地」と謂ふ。故に凡そ動なる者は天の徒にして、之を陽に屬す。靜なる者は地の徒にして、之を陰に屬す。
 陰陽の義・動靜の理は、聖人の定名する所にして、後人の循守する所なり。

意訳-01:天(=天空)とは「転」であり、上方で回転する姿をかたどる。だから、これを「天」(≒転)という。地は「止」であり、下方に静止している姿をかたどる。だから、これを「地」という。したがって総じて「動」的なものは天(天空)の仲間で、〔陰陽二気論で言えば〕陽類に属する。「靜」的なものは「地」の仲間で、 〔陰陽二気論で言えば〕陰類に属する。
 〔あるモノが陰類か陽類か、動的か静的かといった基準、すなわち〕陰陽の法則や動静の原理は、〔文化英雄としての〕「聖人」が〔モノに〕命名する際の原理であり、〔その名付けがモノの実態(陰陽動静)を上手くとらえていることが、〕後世の人々が〔勝手に改名したりせず、聖人による命名を代々ずっと〕守り続けている理由である。

余論:「天」「地」の語源

 息軒によれば、「天」(てん)の語源は回転の「転」(てん)で、「地」(ち)の語源は静止の「止」(し)だという。
 モノの名前は、「聖人」が、例えば“北極星を中心に絶えず回転し続けている様に見える”とか“常に静止し続けている様に見える”といった、見かけ上の形態・動態にちなんで命名した。その名前と人々がそのモノに対して抱くイメージがピタリと一致していたため、つまりモノの特徴を上手く捉えた絶妙なネーミングだったため、改名されることもなく、今なお使用され続けている。
 ここでいう「聖人」はL.ラングいうところの文化英雄であり、文化の発生要因に対する考察が無限遡行に陥ることを避けるために、第一要因として示される“最初にそれを思い付いたヒト”という概念である。要するに、息軒は、天とか地とか山とか川とか右とか左といった基本的な名詞は、ヒトによって任意に決定されたーーソシュールのいう「記号の恣意性」ーーといっているのである。

 息軒が強調しているのは、「天動説」の方が、ヒトが知覚を通して受ける「実感」に合致しているということである。これが終盤の「然らば聖人は非ならんか」に対する回答の前フリになっている。


 息軒がここで挙げた「天≒転」「地≒止」の典拠は、未詳。もともと「語源」に関する諸説には、ダジャレ的な連想から得た思いつきによるものが多い。(「奈良」という地名の語源は韓国語の「 나라・国」だとか、「名前・namae」の語源は英語の「name」だとか、日本語とヘブライ語……)

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