安井息軒〈文会社約〉04

(04)

原文-04:一、會之人、交無新故、唯其雅。去者不追、來者不拒、一任自然。然太寡則閴、太衆則喧。宜以六七名至十名爲限。但緇徒・女流、斷在所却。惡其非類也。


訓読-04:
一、會の人は、交わりに新故無く、唯だ其れ雅のみ。去る者追はず、來る者拒まず、自然に一任す。然れども太寡なれば則ち閴(しづか)なり、太衆なれば則ち喧(かまびす)しい。宜しく六、七名より十名に至るを以て限と爲すべし。
 但だ緇徒・女流は、斷じて却(しりぞ)くる所に在り。其の非類を惡めばなり。

意訳-04:一、本会(會)の会員は、交流にあたって新旧に関係なく、ただ「雅さ」(雅)だけを重視する。去る者は追わず、来る者は拒まず、自然に一任する。そうはいっても、〔会合の参加者が〕少なすぎればひっそりして(閴)〔議論も盛り上がらないし〕、多すぎればやかまし〔くて議論が深まらな〕い。6~7名から10名までを上限とするのがよい。

 ただし僧侶(緇徒)と女性(女流)〔の参加〕は、断じて断るものである。〔というのも、僧侶と女性は、我々と〕同類ではないからである。

補足:悪非類
 「非類」とは、同族・同類でない者、不正な人。息軒は、僧侶と女性は自分たちの同類ではないという。

 僧侶について。儒者は総じて仏教を敵視する。息軒〈鬼神論〉〈辨妄〉によれば、儒者から見た仏教の問題点は、出家と來世の考えにある。まず出家は、信徒に対して人間関係(君臣関係・父子関係)から離脱をそそのかすことで、社会基盤を危うくする。次に来世は、それを餌に信徒を操り、時に一揆に駆り立てる。現世主義の儒者にとって、今世を「夢幻の如くなり」と説く僧侶とは、やっていけないということだろう。

 女性について。儒者は、孔子が「唯だ女子と小人は、養ひ難しと為すなり。之を近づくれば則ち不孫、之を遠くれば則ち怨む」(陽貨)と言っていることもあり、総じて女性の可能性について否定的である。(これを女性蔑視だと言うなら、まあ、そうなのだろうけど、事はそう単純ではない。参照:下見隆雄《孝と母性のメカニズム》)

 ただ息軒の場合は特に、「女性は学問の障害だ」と考えていた節がある。〈三計塾学規〉に「学問之大害は、酒色之二候。(略)。就中女色は、禍本候條、登樓致候向は、卽日退塾可申付候」とある。ちなみに、かの陸奥宗光はこの規則に抵触して、三計塾を破門されている。

 

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