安井息軒〈與某生論共和政事書〉12-13(完)

12-原文:昔者楊墨塞道、孟子闢之、使聖道復明於後世。耶蘇之塞道、百倍楊墨。今雖嚴禁其教、其言則浸淫於洋書之中、其害人心、已有如此者焉。予老矣。不能復與東西風靡之徒、辨其是非邪正。足下亦知我心之悲耶。

12-訓読:昔者(むかし)楊・墨 道を塞ぐも、孟子之を闢(しりぞ)け、聖道をして復た後世に明らかならしむ。耶蘇の道を塞ぐや、楊・墨に百倍す。今其の教を嚴禁すと雖も、其の言は則ち洋書の中に浸淫し、其の人心を害するや、已に此くの如き者有り。予老いたり。復た東西風靡の徒と、其の是非邪正を辨ずる能はず。足下も亦た我が心の悲しきを知らんや。

12-意訳:その昔、〔紀元前300年ごろの中国では〕楊朱と墨翟〔の邪説を信奉する者〕が〔天下に満ち溢れ〕社会道徳(道)を逼塞させたが、孟子がこの邪説を排撃して、〔孔子の教えである〕聖道を後世にもはっきりと分かる状態に戻した。キリスト教(耶蘇)が社会道徳(道)を逼塞することは、楊朱と墨翟に百倍する。今はそのキリスト教を厳禁しているといっても【★】、その言説は洋書の中に染み込んでいて、それらが〔気づかぬうちに〕人々の心を害することは、すでにこのような〔皇室を廃して共和政を施行せよと主張する者が大勢あらわれるほどの〕ものがある。私はすでに年老いた。もはや草木が風になびくように洋学に付き従おうとする世間の連中(東西風靡の徒)と、その主張の是非曲直をめぐって議論することは〔体力的に〕できない。貴殿に私の悲しみが分かるだろうか、いや、分かるまい。

補注:
★「今其の教を嚴禁す」とあるものの、本篇を収録した《辯妄》の刊行は明治6年(1873)夏(島津久光序に「明治六年五月」とある)であり、その三ヶ月前にあたる明治6年2月末日に、すでにキリスト教は解禁されている。

12-余論:楊・墨とは、先秦諸子である楊朱と墨翟を指す。両者は、孟子に排撃されていて、《孟子》には次のようにある。

《孟子・盡心上》:楊子は我が為に取る。一毛を拔きて天下を利するも、為さざるなり。墨子は兼ね愛す。頂(いただき)を摩して踵(くびす)に放(いた)るも、天下を利するは之を為す。

意訳:楊朱は〔個人主義者で、〕自分の為に行動する。だから、たとえ自分の毛を一本抜くことで、社会に利益をもたらせるとしても、〔毛を抜くのは、微細といえども自分にとってマイナスには違いないので、絶対に〕しない。
 墨子は〔博愛主義者で、〕親疎の区別なく、平等にヒトを愛する。〔あまりの過酷さに〕足からすり減っていって脳天まで擦り切れるとしても、社会に利益をもたらせることは必ずする。

《孟子・滕文公下》:楊朱・墨翟の言天下に盈(み)ち、天下の言楊に歸せずんば、則ち墨に歸す。楊氏は我が爲にす、是れ君を無みするなり。墨氏は兼愛す、是れ父を無みするなり。父を無みし君を無みするは、是れ禽獸なり。

意訳:今や楊朱と墨翟の意見が社会に蔓延しており、世間の意見といえば楊朱に帰するのでなければ、墨翟に帰するという有様だ。
 楊朱は〔誰かのためではなく〕自分のために行動しろというが、これは君主〔に象徴される社会関係〕をないがしろにするものだ。墨翟は〔家族愛や郷土愛といった身内意識は捨て、全てのヒトを平等に愛する〕博愛主義に立てというが、これは父親〔に象徴される親族関係〕をないがしろにするものだ。
 家族関係(父)や社会関係(君)をないがしろにするのは、ケダモノ(禽獸)である)

 楊朱の名を冠した諸子文献としては、《列子》収録の〈楊朱〉篇がある。この篇には、人生は百年に満たぬほど短く、そのうえ多くの苦渋に満ちていると悲観したうえで、「人生において何を為し、何を楽しむか。美味しいものを食べて、豪華な衣服を着るだけだ。音楽や踊りを見たり聞いたりして、美女を抱くだけだ」(則ち人の生くるや奚をか為さんや、奚をか樂しまんや。美厚を為すのみ、聲色を為すのみ」という享楽主義(ヘドニズム)の傾向が認められる。(参照:高瀬武次郎《楊墨哲学》)
 〈楊朱〉は、禁欲傾向の強い中国思想なかでは異彩を放っているが、それだけに、この篇が先秦時代に成立したと考える研究者はあまりいない。多くの場合、「竹林の七賢」に象徴される、厭世主義が支配的であった魏晋貴族社会の産物と考えられている。個人的には、より平和で、門閥主義が支配的で、神秘主義が隆盛した後漢の貴族社会のほうが思想的母体として相応しいように思う(が、特に確証があるわけではない)。
 この《列子・楊朱》を除けば、楊朱が享楽主義であったことを裏付ける資料はない。わずかな先秦文献が証言する楊朱(陽子居・ 陽生)の思想は、個人主義であり、国家権力よりも自己の身体的生命の保存を優先する極端な健康志向(自己保全主義)である。
 加地伸行などによれば、儒教とは宗族制にもとづく不死信仰の一種である。自分なりに咀嚼した理解にもとづけば、中国人は祖先から自身を経てまだ見ぬ子孫たちへとつながっていく大いなる「気」(血脈・生命)の流れを仮想し、自分もその大いなる「気」の一部だと思い込むことで、個人としての死に対する恐怖から目をそらしている。宗廟における祖先祭祀や葬礼などは、目には見えぬ「気」の存在性を、みんなで確認するための作業に過ぎない。そういう意味では、楊朱はあくまで個人としての「生」、他ならぬこの「自分」に執着した思想家と言えるかもしれない。
 墨翟の思想は、《墨子》に詳しい。概説書(浅野裕一《墨子》)もあるので、説明は省略する。


13-原文:足下嘗遊於我門、與聞忠孝仁義之說、非純從事於洋學者之比也。是以敢一言之。苟亦與彼徒附和、以唱共和之說、其罪甚於不知而爲之者。請自此絕、勿再踵我門。若猶未也、亦愼所以自處。書不盡言、唯足下思之。不

13-訓読:足下嘗て我が門に遊び、與(とも)に忠孝仁義の說を聞けり。純(もっぱ)ら洋學に從事する者の比に非ざるなり。是を以て敢へて之を一言せん。苟しくも亦た彼の徒と附和し、以て共和の說を唱ふるや、其の罪は知らずして之を爲す者より甚だし。請ふ此れより絕たん、再び我が門に踵(いた)る勿かれ。若し猶ほ未だしきや、亦た自ら處る所以を愼しめ。書は言を盡さず、唯だ足下之を思へ。不

13-意訳:貴殿はかつて我が三計塾を訪れて、ともに〔聖人の教えである〕忠孝や仁義の学説について聞いている。〔その罪深さは、聖人の教えを正式に学ぶ機会を得ぬまま、〕もっぱら洋学に從事してきた者の比ではない。だから、敢えて一言言っておく。仮りそめにも〔聖人の学について学んで知っていながら、洋学かぶれの〕彼らの意見にやすやすと同調(附和)し、共和主義を主張するとは、その罪は〔聖人の学について全く〕知らずにする者より甚だしい。
 これより、〔貴殿との〕交際を絶たせていただく。二度と我が三計塾に来てはならない。〔これだけ説明しても〕もしまだ十分でなければ、自分の足元をよく見つめ直せ。〔《周易・繫辭傳上》の孔子の言葉に〕「文字で書いた文章は、口で言おうとした内容を伝えきれない〔。口で言った言葉は、頭の中で思っていることを伝えきれない〕」という。〔貴殿という学友を失う私の悲憤は、この書簡の文面に数倍する。その点についても、〕貴殿よ、どうかよく考えてほしい。不宣。(完結)

補注:
末尾近くの「亦た自ら處る所以を愼しめ」の意味が、今ひとつ分からない。

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