安井息軒〈文会社約〉07

(07)

原文-07:一、會之饗、肴限二味。主人適有所獲、或菜菓助歡、不妨限外設之。
 飯取果腹、酒期於暢情。客不必辭、主人不必勸、已從易簡。
 語曰、「花觀未開」。酒賞微醺。凡事須留餘地、以求其好。況此狂藥、無量必亂。不必藉口於尼父以期沾首也。

訓読-07:一、會の饗(もてなし)は、肴は二味に限る。主人適々(たまたま)獲る所有る、或ひは菜菓の歡を助くるは、限の外に之を設くるを妨げず。
 飯は果腹を取り、酒は暢情を期す。客は必ずしも辭さず、主人は必ずしも勸(すす)めず、已に易簡に從ふ。
 語に曰く、「花をば觀るに未だ開かず。酒をば賞するに微(や)や醺(よ)ふ」と。凡そ事は須らく餘地を留め、以て其の好を求む。況んや此の狂藥、量無くんば必ず亂れん。必ずしも尼父の期を以て首を沾(うるほ)すに藉口せざるなり。

意訳-07:一、本会(會)の〔当日の幹事役(主人)が用意する〕もてなし(饗)は、酒の肴は2品までに限る。〔ただ、これは幹事役の出費を増やさないための規則なので、もしその日、〕幹事役(主人)がたまたま手に入れた〔山海の珍味といった〕ものがあったり、あるいは野菜や果物などで酒席を盛り上げる足しになるものがあれば、〔酒の肴は2品までという〕制限を外れて用意するのは構わない。
 
 〔参加者は、中途半端な遠慮はせず、〕御飯は満腹するまで食べ、酒は心ゆく(暢情)まで飲もうと心に期する〔べきだ〕。参加者(客)は〔幹事役(主人)に献杯をすすめられるたびに、〕必ずしも〔いちいち儀礼的に〕遠慮してみせたりせず、幹事役(主人)も〔参加者(客)の杯が空くたびに、〕必ずしも〔いちいちすかさず酒を〕勧めたりせず、〔みな酒席における正式な礼儀作法は心得ているだろうが、それは忘れて万事〕手軽(易簡)にする。

 〔洪応明《菜根譚・122段》に〕ある言葉に「花を見るなら半開。酒を味わうならほろよい」と言う。どんなことでも余地を残した状態で、その満足を求めるべきだという意味だ。ましてこの酒(狂藥)というものは、酒量を弁えなければ必ず〔態度や言動が〕乱れ〔、周囲の顰蹙を買うことにな〕る。〔参加者は〕必ずしも孔子(尼父)が〔《論語・郷黨》で「酒量は決まっていないが、酔っ払うまではいかない」(唯だ酒に量無きも、亂るるに及ばず)と言って、〕決められた日には、存分に酒を飲んでいたという逸話を口実に〔して、酩酊するまで飲むような見苦しい真似は〕しない。

補論:「唯酒無量」
 《論語・郷黨》に「唯だ酒に量無きも、亂るるに及ばず」とあるが、これは孔子が自分の酒量について語った言葉ではなく、儒家経典である《儀礼》について解説した言葉である。

 《儀礼》のうち、宴席の作法を明文化した〈燕礼〉〈大射礼〉〈郷射礼〉〈郷飲酒礼〉を見ると、料理の品数に対しては厳密なルールを設けているが、酒量については「一人何杯まで」といった明確なルールが布かれていない。

 だからといって、好きなだけ飲んでいいわけではないし、全く飲まずに済ませていいわけでもない。宴席が友誼を深める活動である以上、参加者全員にはほどよく酔っ払うべきである。さりとて、酒量には個人差があり、その日の体調によって酔う速さも異なるため「量無し」、すなわち「何杯ずつ飲め」というルールを一律に課していないにすぎない。
 「礼」が要求しているのは、参加者が各自で自分が潰れたり、粗相を働くことのない「不亂」のラインを踏み越えないよう注意しつつ、ほどよく酔っ払うことである。

 実際、中国の宴会で酔いつぶれた中国人を見ることは、まずない。道端で下呂を吐いている中国人というのも、ほぼ見かけない。これは、台湾でも同じだった。日中交流会などで酔いつぶれるのは、日本人ばかりである。
 日本人と中国人で、アルコール分解酵素(ALDH2)欠損者の割合に大きな差はないから、中国人が日本人より酒に強いというわけではなく、単に中国人が飲まないだけである。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?