安井息軒〈辨妄・五〉00

(13頁表)

 曠古【①】草昧【②】,聖人之道未明,而人之好智喜怪,必欲知天地生民之初。是以皇國有神人產國之說【③】,漢土有鍊石補天地之言【④】,不獨耶和華【⑤】造天地也。 當少暤氏【⑥】之衰,民神雜柔【⑦】,不可方物【⑧】。夫人作享【⑨】,家爲【⑩】巫史【⑪】【☆】,無有

注釈:
①曠古:(1)遠い昔。(2)前例の無いこと。空前、未曽有。
②草昧:世の中が未開で、人知もまだ発達していないこと。
③神人產國之說:日本の国産み神話。
④鍊石補天地之言:中国の古代神話。女媧が五色の石を練って天空を修繕したという。
 ある時、天空を支える支柱の一つが欠けて天空が傾き、大地が裂け、 山火事と大洪水が起こってそのまま常態化したので、女媧が五色の石を練って天空を修繕し、大亀の脚を切断して新たな支柱とし、黑龍を殺して山火事を鎮め、蘆を燃やした灰を積み上げて洪水をせき止めた。
 《淮南子・覧冥訓》 往古之時,四極廢,九州裂,天不兼覆,地不周載,火爁炎而不滅,水浩洋而不息,猛獸食顓民,鷙鳥攫老弱。於是女媧煉五色石以補蒼天,斷鼇足以立四極。殺黑龍以濟冀州,積蘆灰以止淫水。
⑤耶和華:エホバ、ヤハヴェ。《旧約聖書》に登場する唯一神、創造神。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の信仰対象。
⑥少暤氏:中国の伝説上の聖帝。「五帝」の一人で、黄帝の子、顓頊の父。なお「五帝」には諸説が有り、《史記・五帝本紀》は少暤氏を含まない。
 《春秋左傳・昭公十七年》秋,郯子來朝,公與之宴。昭子問焉,曰「少皞氏,鳥名官,何故也」。郯子曰「吾祖也,我知之。昔者黃帝氏以雲紀,故爲雲師而雲名。炎帝氏以火紀,故爲火師而火名。共工氏以水紀,故爲水師而水名。大皞氏以龍紀,故爲龍師而龍名。我高祖少皞,摯之立也,鳳鳥適至,故紀於鳥,爲鳥師而鳥名」。
⑦雜柔:雑揉。混じり合うこと。
⑧方物:識別すること。混ざり合ったものを正しく分別すること。
⑨享:享祀・享祭。供え物をする。
⑩爲:底本は俗字「為」に作る。今、正字体に改める。以下全て同じ。
⑪巫史:古代の神職。神事を司る者。かんなぎ。
☆豐多標注:韋昭注《國語》云:「『夫人』,人人也。『享』祀也。『巫』主接神,『史』次位序。言人人自爲之」。

(13頁裏)

要質【①】。顓頊【②】受之,乃命南正重【③】司天以屬神,命火正黎【④】司地以屬民,以絕地天之通。於是人紀始以建矣。【⑤】 及堯舜氏興,敘有典,秩有禮,命有德,討有罪,威之以五刑【⑥】,勸之以九德【⑦】【☆】。自時其後,聖人代興,禮樂制度窮極其盛。孔子序《書》,斷自唐虞【⑧】,以其不可爲教也。故治天下之道,莫僃於漢土焉。 西土遠漢,未聞聖人之道,而亦無可以易耶和華者。且西人明於天文,晰於地理。若夫妄誕,必有能辯之者矣。【⑨】智者恐革之激其變,黠者【⑩】欲藉以拓其境。是以未能變曠古之習焉耳。// 然則天地生民【⑪】之初果如何也。曰,聖人所不語,我不敢知。

注釈:
① 要質: 盟誓(神仏に誓いを立てて約束や契約をすること)の誠実さ。
②顓頊:中国の伝説上の聖帝。「五帝」の一人で、黄帝の孫。《春秋左氏伝・文公十八年》に帝鴻氏(黄帝)・ 少皞氏・顓頊・堯・舜という系譜が見える。
③南正重:「南正」は古代中国の官。「重」は姓。
④火正黎:「火正」は古代中国の火を司る官。「黎」は姓。
⑤以上の系譜は、恐らく《国語・楚語下》を踏まえる。
 《国語・楚語下》〔觀射父對曰〕及少昊之衰也,九黎亂德,民神雜糅,不可方物。夫人作享,家爲巫史,無有要質。民匱于祀,而不知其福。蒸享無度,民神同位。民瀆齊盟,無有嚴威。神狎民則,不蠲其爲。嘉生不降,無物以享。禍災薦臻,莫盡其氣。顓頊受之,乃命南正重司天以屬神,命火正黎司地以屬民,使復舊常,無相侵瀆,是謂絕地天通。其後,三苗復九黎之德,堯復育重黎之後,不忘舊者,使復典之。
⑥五刑:中国古代の刑法。時代によって、「五刑」の内容は変化する。ここでは、恐らく「墨(入れ墨)・劓(鼻削ぎ)・剕(足切り)・宮(宮刑)・大辟(死刑)」を指す。
 《尚書・呂刑》:五刑之疑有赦,五罰之疑有赦,其審克之。簡孚有眾,惟貌有稽。無簡不聽,具嚴天威。墨辟疑赦,其罰百鍰,閱實其罪。劓辟疑赦,其罪惟倍,閱實其罪。剕辟疑赦,其罰倍差,閱實其罪。宮辟疑赦,其罰六百鍰,閱實其罪。大辟疑赦,其罰千鍰,閱實其罪。墨罰之屬千。劓罰之屬千,剕罰之屬五百,宮罰之屬三百,大辟之罰其屬二百。五刑之屬三千。
⑦九德:《尚書‧皋陶謨》で挙げられる9つの徳。
 《尚書‧皋陶謨》皋陶曰:「寬而栗。柔而立,愿而恭,亂而敬,擾而毅,直而溫,簡而廉,剛而塞,彊而義,彰厥有常。吉哉,日宣三德,夙夜浚明有家。日嚴祗敬六德,亮采有邦,翕受敷施。九德咸事,俊乂在官。」
☆豐多標注:《書》云:「寬而栗,柔而立,愿而恭,亂而敬,擾而毅,直而溫,簡而廉,剛而塞,彊而義。」
⑧唐虞:陶唐氏の堯と有虞氏の舜。
⑨西洋の地理・天文は優れているという評価は幕末の儒者の共通見解と思われ、安積艮斎( 1791-1861)《洋外紀略》にも「大抵西学の天象地理器物の制に於けるは極めて精密たり。性命の理の若きに至れば、則ち迂誕にして天道に道せず」という。(参照:山本幸規〈幕末御儒者のキリスト教観/安積良斎『洋外紀略』にみる〉)
⑩黠者:狡猾な者、ずるく振る舞う者。
⑪天地生民:底本は「天地民生」に作る。安藤定《辨妄和解》が「天・地・生民」と訓読し、また下に「生民之初」(14頁表)とある事より、改む。

(14頁表)

然耶蘇徒,鑿鑿【①】言之。我民或惑之,其禍有不可測者焉。我且憶說之。夫地與五星【②】皆以大陽【③】爲心【④】,日夜運轉於虛空中,各有其度。地則日轉一度,三百六十有六轉,乃能一周大陽。是爲一歲。歲有四時、十二月、二十四節、七十二候。皆以大陽遠近爲之名【⑤】。萬物以生以長以成以收【⑥】,其氣所不及,地不能生物。萬古一定,未嘗變其度。然則地球者大陽爲之主。既爲之主,而能榮枯盛衰其所生之物。則謂大陽造成地球亦可。其於五星亦當然耳。// 積灰生蠅,腐水生鱗【⑦】。以此推之,生民之初,蓋【⑧】亦氣化耳。【⑨】其稟陽氣者爲男,稟陰氣者

注釈:
①鑿鑿:言葉が巧みで鮮やか様子。
②地與五星:地球と水星・金星・火星・木星・土星。
③大陽:太陽。
④以大陽爲心:ここで息軒は、地球と五つの惑星が太陽の周囲を公転するモデルを支持している。
 朱子学は天動説に立脚し、林羅山には地動説を唱える宣教師を論破して棄教させたという逸話がある。また、大阪・懐徳堂の中井履軒(1732-1817)が《天図》という天動説と地動説を折衷した天体模型図を制作しており、その弟子の山片蟠桃(1748-1821)に至っては地動説を支持している。
⑤皆以大陽遠近爲之名:惑星の公転軌道は楕円であるため、確かに太陽から地球までの距離は一定ではないが、北半球を基準していえば、夏季には離れて冬季には近づくため、太陽からの遠近が四季の発生原因ではない。息軒の説明には語弊がある。
⑥萬物以生以長以成以收:例えば、植物が春に芽吹き、夏に育ち、秋に実り、冬を種となって越す様をいう。
⑦積灰生蠅,腐水生鱗:長年積もった灰がコバエ(蝿)を生じ、淀んだ水が魚類を生ずる。ここで息軒は、生命の自然発生説・偶然発生説を唱えている。キリスト教の”神がヒトの霊魂を生み出した”という教義を否定するためだが、そもそも中国哲学は太乙→陰陽→五行→万物という自然発生説に立脚しており、息軒独自の見解というわけではない。
 なお自然発生説は19世紀ごろの西洋でも有力だったが、1861年、すなわち明治維新(1868)の7年前、ルイ・パスツール(1822-1895)による「白鳥の首フラスコ」を用いた実験によって否定された。
⑧蓋:底本は異体字「盖」に作る。今改。以下、同じ。
⑨生民之初,蓋亦氣化耳:息軒は”ヒトも自然発生した”と推論する。これもまたキリスト教の“神がヒトを作った”という教義を否定するためである。
 なお、中国哲学における「気」は、古代ギリシアのデモクリトスが提唱したアトモン(原子)の概念に似て、万物を構成する最小単位である。ただし「気」の場合、それ自体が何らかのエネルギーを有する粒子と想定されており、その離合集散によって万物の生成・生死が説明される。ちなみに西洋で原子論が一般の科学者たちに受容されるのは、20世紀に入って「電子」が発見されてからのことである。また「気」は大気中を満たしているとされ、17世紀にデカルトが提唱したエーテルの概念にも似る。

(14頁裏)

爲女。男女既判,各相配以蕃其類。物皆然,人何獨不然。 其所以生爲男女,則聖人嘗於大易一言之。曰:「『乾』,天也。故稱於父。『坤』,地也。故稱乎母。『震』一索而得男,故謂之長男。『巽』一索而得女,故謂之長女。『坎』再索而得男,故謂之中男。『離』再索而得女,故謂之中女。『艮』三索而得男,故謂之少男。『兌』三索而得女,故謂之少女」【①】。其於人,以父母齒及受胎之月爲三爻。純陽純陰,則勿論耳。一竒二偶,則得男。一偶二竒,則得女。【②】【☆豊多】其當男而得女,當女而得男者,是謂天人之變,必不能成長。或三歲,或六歲,未有能過十二歲者,天之數也。【③】月亦

注釈:
①《周易‧說卦傳》:「乾,天也,故稱乎父。坤,地也,故稱乎母。震一索而得男,故謂之長男。巽一索而得女,故謂之長女。坎再索而得男,故謂之中男。離再索而得女,故謂之中女。艮三索而得男,故謂之少男。兌三索而得女,故謂之少女。」
②以父母齒~:ここで息軒は、〈說卦伝〉の記述を敷衍して、男女の産み分け方法を解説している。息軒によれば、両親の年齢と何月に妊娠したかによって胎児の性別が決定するという。 
☆豐多標注:《睡餘萬錄》云:「震一索」云云,夫年爲初爻,受胎之月爲中爻,婦年爲上爻。假令夫年二十一、婦年十八,而六月受胎。奇陽偶陰,是爲震卦 ☳。所生必男。所謂「震一索而得男」也。夫年二十六、婦年二十,而五月受胎。是爲坎卦 ☵。所謂「坎再索而得男」也。夫年三十、婦年二十五,而四月受胎。是爲艮卦 ☶。所謂「艮三索而得男」也。
③12歳未満の子供が突然死する原因。前述の産み分け法則に反した性別で生まれた子供は、12歳まで生きられないとする。
 息軒は二男三女を設けたが、次女と三女は幼くして亡くなっている。息軒は、娘たちの死を右のような理論によって受け入れていたのではないか。あるいは子供らに対して、嫡子を生むべく、妊活時期を指示していた可能性もある。

(15頁表)

一地球,本無自光,受日光以爲光。其所以能参成男女者何也。曰:鏡亦無光,執以暎【①】日,可以照屋粱,謂之非日輝則不可。月之照地,亦猶如鏡之照屋粱耳。月以地球爲心【②】,以二十九日有竒,一周其外。乃天之所以衛地也。故能感其陰類,互物【☆】之肉隨月盈虧,而潮汐進退從其出沒,是明證也。婦人亦陰類也。故其經水月必一行,而其受胎,歲只四月,月只三日。【③】【☆】以其齒與經行淨後爲之度,則月之能參成男女,亦何疑焉哉。至其壽夭、美醜、禍福、吉凶、智愚、賢不肖之殊,則六物爲之。當父母流氣之時,六物皆善,五福【④】【☆】咸僃;六

注釈:
①暎:「映」に同じ。映す、映る。
②月以地球爲心:月は地球を中心に公転する。
☆豐多標注:『互物』謂龜鼈蜃蟹蚌【※】甲殻交合也。  ※蚌:ドブガイ
③而其受胎,歲只四月,月只三日:ここで、妊娠(受胎)可能な日数が「月只三日」(1ヶ月に三日間だけ)というのは、現代医学に適っている。妊娠可能期間は、排卵後(つまり生理が終わってから)72時間(3日)以内とされる。ただ「歳只四月」(1年に4ヶ月だけ)という理屈が難解。
 豊多の説明によれば、13歳なら孟春・孟夏・孟秋・孟冬だけ、14歳なら仲春・仲夏・仲秋・仲冬だけということだが…。想像を逞しくすれば、妊娠時期をずらすことで出産時期が重ならないようにする智慧なのかもしれない。
☆豐多標注:又云「其受胎歲只四月」云云,配四時於三指,食指爲正月,將指二月,無名指三月。女子十三經通,以此爲始。仍配婦年於三指,食指爲十歲,將指十一,無名指十二。則十三正與正月遇,是爲受胎之月。故十三之婦受胎於四孟,十四則四仲,十五則四季。其二十以上之婦,食指爲十,將指二十,無名指二十一,餘可類推也。受胎之日,在經水淨後三日之中。
③ 五福:《尚書‧洪範》:五福:一曰壽,二曰富,三曰康寧,四曰攸好德,五曰考終命。
☆豐多標注:《洪範》云:「『五福』,一曰壽,二曰富,三曰康寧,四曰攸好德,五曰考終命。」

(15頁裏)

物皆惡,則六極【①】【☆】盡鍾。或善或惡,爰爲中人,此世之所以多中人也。何謂「六物」。歲、時、日、月、星、辰,是已。故所謂「靈」者與肉身偕生,其從齒而增,猶肉身逐年而長。非父母先與肉身,然後耶和華人人而授之靈也。昔聖王之御世也,仲春之月,先雷三日,遒人【②】振木鐸以令兆民【☆】,曰:「雷將發聲,有不戒其容止者,生子不備,必有凶災。」【③】然則人之不具有凶災,風雷非常之變亦能爲之,不獨「六物」也。 其獨言「不具」與「凶災」者,其智愚、賢不肖,學之與習,可以移之;禍福、吉凶亦其所自取;君子安命,壽夭不貳,脩身以俟天命,教之道也。其論人

注釈:
① 六極:《尚書‧洪範》:六極:一曰凶、短、折,二曰疾,三曰憂,四曰貧,五曰惡,六曰弱。
☆豐多標注:《洪範》:「『六極』:一曰凶、短、折,二曰疾,三曰憂,四曰貧,五曰惡,六曰弱。」
② 遒人: 天子の命令を民間に知らせる政府広報官。または、天子が民情を知るために派遣する調査官。息軒は前者の意味で使う。 《尚書・胤征》每歲孟春,遒人以木鐸徇于路。《春秋左氏傳・襄公十四年》故《夏書》曰:「遒人以木鐸徇于路」。杜預注:「遒人,行人之官也……徇於路,求歌謡之言。」
 《尚書‧胤征》:惟仲康肇位四海,胤侯命掌六師。羲和廢厥職,酒荒于厥邑,胤后承王命徂征。告于眾曰:「嗟予有眾,聖有謨訓,明徵定保,先王克謹天戒,臣人克有常憲,百官修輔,厥后惟明明,每歲孟春,遒人以木鐸徇于路,官師相規,工執藝事以諫,其或不恭,邦有常刑。」
☆豐多標注:《書》傳:「『遒人』宜令之官。『木鐸』,金鈴木舌,所以振文教。」【※】《禮疏》云:「小人不畏天威,懈慢褻瀆。或至夫婦交接,君子制法不可指斥言之。故曰:「有不戒其容止者。」   ※ 《尚書正義‧胤征》孔安國傳:「『遒人』宜令之官。『木鐸』,金鈴木舌,所以振文教。」
③ 《禮記‧月令》:「(仲春之月)是月也,日夜分。雷乃發聲,始電,蟄蟲咸動,啟戶始出。另先雷三日,奮木鐸以令兆民曰:雷將發聲,有不戒其容止者,生子不備,必有凶災。日夜分,則同度量,鈞衡石,角斗甬,正權概。」

(16頁表)

所以生,如此明且盡之。安得以死後不可知之靈,而淆之哉。 我聞前四十年而來,西土亦有悅聖人之教者,曰:「治天下,莫孔子之道若焉。」輓近【①】則梓行【②】聖經【③】,譯以國字【④】。此將欲敷其教於國中也。【⑤】況其人【⑥】固聰明,非若北狄南蠻不可得而教誨之類,不久我道其將行於彼與。君子道長,則異端必消,自然之數也。 【⑦】我若今日啓耶蘇,數十年之後,得無如浮屠滅於印度,而獨遺害於我國乎哉。【⑧】在上君子,其可不再思焉乎。

注釈:
①輓近:近頃、最近。
②梓行:刊行すること、出版すること。
③聖經:経書。儒家経典。
④梓行聖經,譯以國字:西欧人が,儒家経典を母国語に翻訳して刊行した。
⑤此將欲敷其教於國中也:これは、西欧人が儒教を自国に広めようとしているのである。
⑥其人:西洋人
⑦異端必消,自然之數也:息軒は、キリスト教が欧米で衰退しつつあると見切っていたようだ。実際、地動説の普及に見られるように、教会の伝統的権威はずいぶんと弱まっており、ダーウィンが《種の起源》を出版するのが日米修好通商条約(1858)の翌年にあたる1859年、メンデルが遺伝の法則を発表するのが1865年のことである。
⑧得無如浮屠滅於印度,而獨遺害於我國乎哉:仏教が発祥地のインドで廃れて日本に残っているように、キリスト教も西洋では廃れて日本に残っているという事態になること。

(完)


余論:
 息軒は〈辨妄・一〉~〈辨妄・三〉を費やして、《聖書》の記述に対して批判を加えてきた。その批判の方法は三種に大別され、一つは論理的矛盾を指摘するもの(※1)、一つは反倫理的性を非難するもの(※2)、そして一つは自然科学観をめぐって争うものである。

補注:
※1:例えば、神は塵を材料にしてアダムを作り、アダムの肋骨を材料にエヴァを作ったといい、人体を作る際に明らかに材料を必要としているが、では天地万物日月星辰を作る時は何を材料にしたのか。
 エバが禁断の果実を食べた罰として、女性が産褥に苦しむことになったというが、ではヒト以外の動物の牝がみな出産の苦しみを味わうのはどういう理由か。
※2:例えば、創世記19章で、ロトの二人の娘たちは父親を酒に酔わせて近親相姦を行い、それぞれ子供をなした。同38章で寡婦となったタマルが娼婦のふりをして舅のユダと関係を持ち、その子供を生んだ。
 《聖書》には神に背いて天罰を受ける者が大勢いるが、「十戒」に違反した彼女らが天罰を免れているのはなぜか。

 自然科学観で問題となっているのは、いわゆる「霊魂」の由来である。
 〔息軒の理解によれば、〕キリスト教は霊魂は神(GOD)より授かったもので、肉体が滅びても霊魂は永久不滅であり、死後肉体から遊離して、生前の功罪に応じて天国か地獄へ行き、生存の応報を受けると説く。
 息軒の自然科学観に従えば、霊魂とは胎児の段階で体内に芽生えるもので、胎外から植え付けられる類のものではない。肉体あっての霊魂であり、死して肉体が滅びれば、霊魂も霧散する。したがって、死後の世界などあり得ない。仮に霊魂が不滅だとしても、ヒトは感覚器官を通じて外部刺激を受信しているので、肉体が滅びて五官が失われれば、たとえ霊魂が残っていても外界のことは一切感知できなくなる。地獄の業火で焼かれようと、痛点がないのだから、何も感じない。死後の世界を考えるのは無意味だとあざ笑う。
 ここで問題となるのは、「霊魂」もしくは「生命」なるものが、神(GOD)にしか生み出せない、神(GOD)によって初めてヒトにもたらされるものなのか、それとも自然発生的なものなのか、という一点である。息軒は、この一点こそがキリスト教の要石と見定め、〈辨妄・五〉において自然発生説を展開する。
 ただ、途中で「男女の産み分け方法」という脇道へそれてしまい、それが全体の説得力を大いに損なう原因となっている。あるいは、この箇所は《周易‧說卦傳》の一節を解説したに過ぎないのかもしれないが、やはり息軒が現代人とは異なる世界観を生きている証拠として、素直に受け止めるべきであろう。
 歴史上人物の思想を研究する際に、現代的価値観との整合性を図ることは厳に慎むべきである。思想研究と思想活動は、分別しなければならない。


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