安井息軒《睡餘漫筆・地理のこと》00

(41頁)

○ 地理の事を言へるは、西洋の書尤もよし、堅艦を作りて萬國に通商し、親しく之を見し上に、天文に因て地方を定むるゆへ、此れより確(※タシカ)なる者なし。其次は分理術器械【①】の製作なり、天文の說は其理漢土渾天家の說【②】に同じ、渾天家の說に地の天中にあるは、鶏子中の黃【③】の如しと云ひ、月食は地影也と云ふが如き、皆西説と暗合す、///地影のことを暗虛とも云ふ、虛空中の暗處と云ふ、地にて日の光を掩へば、其處は必ず暗し、月其暗き處を過ぐれば、日の光を受くること能はずして、月食となる意に

注釈:
①分理術器械:科学技術。分析(分理術)と機械工学(器械)。
②渾天家の說:渾天説。天動説の一種で、後漢の張衡(78―139)が提唱した。従来の蓋天説が天空と大地を平行な平面(後に曲面に修正された)と捉えるのに対して、蓋天説は天空を卵殻、大地を卵黄に喩え、静止した大地(卵黄)の周りを天空(卵殻)が回転していると説明した。
③鶏子中の黃:鶏卵のなかの卵黄。

(42頁)

て、月暗虛に陥れば月食と云ふ、兩京賦【①】を作りし、後漢の張衡が著せし、渾天靈秘要【②】と云ふ書に見ゆ、朱氏【③】詩經の月食の所【④】を注して、暗虛のことを引き、日中の黑點とし、日月正しく相對し、日中の黑點に射らるれば、月食す【⑤】と云へるは、小兒をも欺き得ざる妄説なり、///又古へより星入月【⑥】と云ふこと歷史に見ゆ、西人は星の月に入るにはあらず、肉眼は高き物は斜をかけて見ゆるゆへ、月の旁を通れば、其中に入るが如く見ゆると云ふ此說極めてよし、月に入ると書きし星は太白星【⑦】なり、太白は月より遙に高し、月中に入るの理なし、清の焦循【⑧】が說文の月は闕也の說【⑨】に本づきて、月は薄き物ゆへ星其中に入ること【⑩】を得【⑪】と云ひしは、月の別に一地球たることをも知らず、笑ふべきの甚しき也、///西人は彗星の如きも、出るに定期ありと言るは、予未た其理を窮めざるゆへ詳に其是非を云ふこと【⑫】能はず、算は即ち漢土にて用う算木の法【⑬】なり、其異なる所は木を並べると、紙に書くとの違ひあるのみ也、今の珠盤(※ソロバン)は、算木の手間取を厭ひて明末に拵(こしら)へし物なり、其品と詞と運動の法は違へども其理は同じ、///其他政事法律の如きは國俗に從ひ刻薄を極む、若(もし)之を用ゐば恐くは我忠厚の俗を破

注釈:
①兩京賦:後漢の張衡(78―139)の《二京賦》。張衡が、班固 (32-92)の 《两都賦》になぞらえて作った。《二京賦》は《西京賦》と《東京賦》からなり、西の長安と東の洛陽を対照しながら人民の生活を描写した、一種の博物の書である。
②渾天靈秘要:未詳。張衡(78―139)《靈憲》か?。
★《靈憲》 夫日譬猶火,月譬猶水,火則外光,水則含景。故月光生於日之所照,魄生於日之所蔽。當日則光盈,就日則光盡也。眾星被燿,因水轉光。當日之衝,光常不合者,蔽於地也,是謂闇虛。在星星微,月過則食。
③朱氏:朱熹(1130-1200)。朱子学の創始者。
④詩經の月食の所:未詳、調査中。あるいは、朱熹《詩經集傳・小雅・祈父之什・十月之交》の「凡日月之食」云々を指すか。ただし〈十月之交〉は月蝕ではなく、日蝕を歌った詩。
 ★朱熹《詩經集傳・小雅・祈父之什・十月之交》凡日月之食,皆有常度矣。而以為不用其行者,月不避日,失其道也。然其所以然者,則以四國無政,不用善人故也。如此則日月之食皆非常矣。而以月食為其常,日食為不臧者,陰亢陽而不勝,猶可言也。陰勝陽而揜之,不可言也。故春秋,日食必書,而月食則無紀焉。亦以此爾。
⑤暗虛の~月食す:息軒は《詩經》の日食記事の朱熹注だと云うが、文面より推察するに、恐らくは《朱子語類・尚書二・康誥》の記事。息軒の記憶違いであろう。
 ★朱熹《朱子語類・尚書・康誥》又問「月蝕如何」。曰「至明中有暗處,他本作「暗虛」,下同。其暗至微。望之時,月與之正對,無分毫相差。月為暗處所射,故蝕。雖是陽勝陰,畢竟不好。若陰有退避之意,則不至相敵而成蝕也。」
⑥星入月:月が天体を覆い隠す現象。「星蝕」、「惑星蝕」。
⑦太白星:金星。《後漢書・志・天文中》十五年十一月乙丑,太白入月中,為大將戮,人主亡,不出三年。後三年,孝明帝崩。
⑧焦循:清朝考証学者の焦循(1763-1820)。著書に《易通釈》《六経補疏》《孟子正義》《論語通釈》《劇説》など。特に《孟子正義》は、息軒《孟子定本》の下敷きである。日蝕に関するものとして、〈推小雅十月辛卯日食詳疏〉がある。
⑨說文の月は闕也の說:《説文解字・月部》 月、闕也。大陰之精。象形。凡月之屬皆从月。
⑩こと:底本は合略仮名に作る。今、フォントが無いので改める。
⑪月は薄き~を得:典拠未詳、調査中。焦循の著作で星蝕に関するもの。
⑫こと:底本は合略仮名に作る。今、フォントが無いので改める。
⑬算木の法:籌算。算木という計算用具を用いた計算方法。算木はソロバンの発明により廃れた。《老子・二十七章》善數者不用籌策。

(43頁)

りて薄惡【①】の風とならん、人倫の道は君臣父子の類、假として天主【②】の合せし所なりとて、獨り夫婦を貴ぶ、女を尊ぶこと男子より甚し【③】、此教は尤も我國に害あり、汝が輩西法を取(とら)んには、此意を失ふべからず。

注釈:
①薄惡:社会風俗が浅薄なこと。 《漢書・禮樂志》習俗薄惡,民人抵冒。
②天主:キリスト教の神。ヤハウェ。
③女を尊ぶこと男子より甚し:欧州の騎士道における「婦人への奉仕」や英国のレディ・ファーストを指す。また、欧州ではロシア帝國の女帝エカテリーナ2世(在位1762~1796)や大英帝国のビクトリア女王(在位1838-1901)が現れたが、東アジアでは「牝鶏晨す」(尚書・牧誓)といって、女性が権力を握るのは国や家が傾く原因だとされた。

余論:西洋文明に対する評価と許容。
 息軒は西洋文明を、①地理学、②科学的分析と工学技術、③天文学、④数学、⑤法律制度、⑥倫理道徳に分けた上で、評価を下す。①と②は絶賛、③は古代中国に同じものがあり、④は東洋と同じものがあるという。この①~④については、受容を推奨・容認する。だが、⑤は受容すれば日本の国風が失われる危険性があるとして難色を示し、⑥は拒絶する。
 こうして整理すれば、息軒の評価は、幕末から明治にかけての近代化、すなわち明治維新における、日本の西洋文明の受容の仕方をそのまま反映している。つまり自然科学や工業技術はそのまま受容し、法律制度は日本社会に適合するよう修正したうえで受容し、キリスト教は拒否である。

 西洋文明の優れている点として第一に地理、第二に科学技術(分理術器械)を挙げる。次いで天文学に言及し、東洋の古代天文学がかえって蝕の仕組みを正確に理解していたことを指摘する。(同様の指摘は、ジョセフ・ニーダム《中国の科学と文明・天の科学》にも見える。)また数学についても、東西に本質的な違いはないとする。
 つまり、ここまでは積極的な導入を推奨しているのである。

 法律制度については、西洋法には西洋社会の風俗が反映されていることを指摘し、これをそのまま安易に導入すれば、日本社会の風俗と衝突し、あるいは日本人の美徳を損壊する危険性があると指摘する。
 ちなみに、明治新政府は、明治3年に明律・清律を参考に《新律綱領》を施行していたが、明治4~6年にかけての岩倉使節団による不平等条約改正交渉が不調に終わったことを受けて、明治7年から仏人法学者ボアソナードに依頼して西洋法を参考にした近代刑法の起草を始め、「旧刑法」が明治15年より施行された。息軒が本篇を書いた明治8年頃は、まさにこの旧刑法が制定されていた時期にあたる。
 息軒は「其他政事法律の如きは國俗に從ひ刻薄を極む」と指摘し、「若し之を用ゐば恐らくは我が忠厚の俗を破りて薄惡の風とならん」「汝が輩西法を取らんには、此の意を失ふべからず」と警告する。果たして「旧刑法」は、単なる西洋法の引き写しではなく、日本の慣習法を踏まえて、日本の国情に沿った近代法として制定された。この方針はボアソナードの提言だとされるが、もともと日本側にそうしたニーズがあったのだろう。


 人倫について、西洋倫理(主にキリスト教)とは相容れないことを力説する。この点については、すでに明治6年刊行の《辯妄》で語り尽くしていたためか、本篇での言及は極めて薄い。

 ここでは西洋文化の所謂る「レディ・ファースト」に言及し、「此教は尤も我國に害あり」と強く反対する。《尚書・牧誓》に「牝鶏晨す」(雌鳥が時を告げる。女性が権勢を振るうようになると、その家や国は滅びる)とあるように、儒教は女性が男性を凌ぐことをタブー視する傾向がある。それは、儒教社会では、「孝」という徳目ゆえに、母親の子供に対する支配力があまりに強力だったという実情の裏返しでもあるのだが。(参照:下見隆雄)
 息軒は、文久年間に老中の諮問に応じて執筆した《時務一隅》において、将軍や旗本が幼少期から家中で母親や女中といった女性に囲まれて育つため、雑な言い方をすれば「女々しい」性分に育つことを問題視し、所謂るパブリック・スクールの開講して、8歳から男性教諭や男児の同級生らと過ごさせことで、これまた雑な言い方をすれば「男らしい」人格に育てることを建言している。
 これを封建的な女性蔑視と評価することは、あながち間違いとは言えないけれども、当時の情勢を考慮しなければ、不公平というものであろう。当時は欧米列強の東アジア進出が本格化し始めており、日本は防衛のためにも急速な富国強兵が求められていた。そのためには、自ら国家の先頭に立って国民をまとめ導く力強いリーダーを必要としていた。そこでは、どうしても「女性的」なるものは忌避されざるを得ない。
 その是々非々は横に置くとして、結果を見れば、息軒が懸念したような「女を尊ぶこと男子より甚し」という社会は到来しなかった。大正時代の普通選挙権でも女性は除外され、今もなお女性の管理職や首長は少ない。「夫婦を貴ぶ」ということも、最近の若い世代はいざしらず、昭和世代には縁遠い話だ。
 息軒の主張を現代の支点から思想的に批判することは容易いけれど、いま目を向けるべきは、是非はどうあれ、近代以降の日本は息軒が指し示した道筋を進んできたということである。女性が社会集団において男性と同等以上に扱われることは、学校教員を除けば今なお難しいし、宗教の自由はあるけれど、キリスト教徒は全人口の1%にとどまる。
  

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?