安井息軒〈擬乞禁夷服疏〉11 (完)

原文-11:伏乞速禁夷服夷言、以絕妄人變於夷之漸。其奉正朔日掲紀年以惑人者,正之典刑。庶幾海內知上意所在。而人心自定、雖誑誘百端、未足深憂也。不堪杞人憂天之至、謹上疏以聞。

訓読-11:伏して乞ふらくは速やかに夷服夷言を禁じ、以て妄人の夷に變ずるの漸を絕て。其の正朔の日を奉じ紀年を掲げて以て人を惑す者は、之を典刑に正せ。
 庶幾(こひねが)はくは海內をして上意の在る所を知らしめよ。而して人心自(おのずか)ら定まり、誑誘百端すと雖ども、未だ深く憂ふに足らざるなり。
 杞人憂天の至に堪へざれば、謹んで上疏して以聞す。

意訳-11:〔以上のような次第で、ここに〕伏してお願い申し上げます、どうか速やかに〔邦人による〕洋服(夷服)の着用と欧米語(夷言)の学習・使用を禁じて、無知で出鱈目な者(妄人)どもがだんだんと西洋人(夷)へと変わっていく流れをお絶ちください。〔西洋の〕太陽暦の日付を捧げ持ち〔、西暦による〕紀年を掲げて〔、「これが正しいカレンダーである」と煽り立てて〕人民を惑わせる者は、刑法〔典刑〕に照らして処罰してください。

 何卒どうか国内〔の人々〕に幕府の意向(上意)がどこにあるか〔、つまり、西洋化は、あくまで火器や大型外洋船の製造・運用といった、現在の日本に必要不可欠かつ緊急を要するハードウェアに限定し、緊急性に乏しくかつ既存のもので間に合う衣装や言語、暦、宗教といったソフトウェアは解禁しない旨を〕を理解させてください。そうすれば人民の心は自然と安定し、たとえ〔今後も、西洋人宣教師による我が人民への〕誑かしや誘いこみが多い(誑誘百端)としても、それほど深く憂慮するに及びません。

 〔《列子・天端》には、その昔、杞国の人がある日突然「天空が落ちてきたらどうしよう」という強迫観念にとらわれ、何も手につかなくなったという故事がございます。いわゆる「杞憂」の由来ですが、あるいは私の懸念も「杞憂」に過ぎず、閣下も一笑に付されるかもしれません。ですが、〕この「杞憂」(杞人憂天)が極まって我慢できませんので、恐れ多くも上奏文を差し上げて(上疏)、愚見を奏上いたします。

余論-11:締めの言葉。
 ”いま洋装を容認すると、西洋への憧れと共感が高じて基督教徒となり、宗教叛乱を起こし、ついには欧米と連携して日本からの分離独立を画策し、ついには日本も殖民地に堕ちるかもしれない。自分の懸念は杞憂かもしれないが、杞憂が極まって我慢できなくなったので、上奏いたします……という旨のことが書かれている。

 洋装が内面の西洋化を招くという考えは、恐らく幕末維新期の知識人の共通認識だったと思われる。ただし、この共通認識のままに、明治6年(1873)ごろを境に、政策ベクトルが180度変わる。すなわち西洋化抑制(和魂洋才)から西洋化促進(文明開化)への転換である。

 明治4年(1871)、岩倉使節団は欧米を訪問して不平等条約の改正交渉に臨んだが、「浦上四番崩れ」の影響もあって、思わしい結果は得られなかった。この結果を踏まえて、日本は「脱亜入欧」を決意し、西洋化を推し進めていくことになる。
 例えば明治6年に基督教解禁に踏み切り、仏国から法学者ボアソナードを招き、明治10年から西洋法をモデルとした民法の草案が始まり、明治14年には国会開設之詔が出される。

 そして、森田登代子〈明治天皇の洋装化/宮内庁書陵部所蔵『御用度録』を参考に〉によれば、明治政府はこの時期から明治天皇の洋装化にも着手する。明治5年(1872)年11月12日に「大礼服通常礼服」を制定し、明治6年6月3日に「御軍服同略服」を制定して、明治天皇の礼服・軍服・平服の洋装化を一気に進める
 もっとも、これに先立って、明治新政府は明治3年11月5日に「官吏の制服・制帽を定む」、明治3年12月22日に「陸海軍制服」を定めて、軍人と官吏に対して洋装制服の着用を義務づけている。さらに明治4年8月25日には、次のような内勅を発している。

 惟フニ、風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ、國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス。
 今衣冠ノ制、中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス。朕太タ慨之。夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ、固ヨリ久シ。天子親ラ之カ元帥ト為リ、衆庶以テ其風ヲ仰ク。神武創業・神功征韓ノ如キ、今日ノ風姿ニアラス。豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ。
 朕今断然其服制ヲ更メ、其風俗ヲ一新シ、祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス。汝等其レ朕カ意ヲ体セヨ。
      宮内庁《明治天皇記》2巻、531-532頁(森田論文より孫引き)

ここでは従来の公家装束を「軟弱ノ風」と批判したうえで、「服制」を改めて「尚武」へ立ち返ることを宣言している。

 その後、明治5年4月7日に明治天皇のために洋服が発注され、同年5月の中国・西国巡幸では、明治天皇は洋装姿を庶民の前で披露した。そして明治6年3月、明治天皇は自ら進んで髷を切り、ザンバラ髪にする。我々がよく目にする”軍服姿で椅子に腰掛けた明治天皇”の御真影(肖像写真)は、この年10月に撮影されたものである。

 以上の明治新政府による洋装化政策は、その目的自体は息軒〈擬乞禁夷服疏〉の真逆を行くものだが、その実、同じ観念の上に立っていることは明らかである。つまり、「異民族の服を着用すれば、その異民族に同化してしまう」という観念である。
 息軒が本篇を書いた幕末の時点では、日本の西洋化は殖民地化を意味し、決して望ましいものではなかったから、息軒も洋装を法令で禁止するよう提言したが、明治5年ごろの条約改正失敗によって、西洋化が近代化に意味を変えて国家的目標に据えられるや、一転して洋装が推奨されるようになったに過ぎない。
 装束と精神の関係に対する基本認識は、変わっていないのである。

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