安井息軒〈辨妄・五〉06

原文-06:昔聖王之御世也、仲春之月、先雷三日、遒人振木鐸以令兆民曰、「雷將發聲。有不戒其容止者、生子不備、必有凶災」。然則人之不具・有凶災、風雷非常之變亦能爲之。不獨「六物」也。
 其獨言「不具」與「凶災」者、其智愚・賢不肖、學之與習、可以移之、禍福・吉凶亦其所自取、君子安命、壽・夭不貳、脩身以俟天命,教之道也。其論人所以生,如此明且盡之。安得以死後不可知之靈,而淆之哉。


訓読-06:昔聖王の世を御するや、仲春の月、雷に先んずること三日、遒人木鐸を振りて以て兆民に令して曰く、「雷 將(まさ)に聲を發せんとす。其の容止を戒めざる者有れば、生子備はらず、必ず凶災有らん」と。然らば則ち人の不具なる、凶災有るは、風雷非常の變も亦た能く之を爲す。獨り「六物」のみにあらざるなり。
 其の獨り「不具」と「凶災」のみを言ふは、其の智愚・賢不肖は、學と習と、以て之を移すべく、禍福・吉凶も亦た其の自ら取る所にて、君子は命に安んじて、壽・夭もて貳せず、身を脩めて以て天命を俟(ま)つは、教の道なればなり。其の人の生ずる所以を論ずること、此くの如く明らかに且つ之を盡せり。安んぞ死後の知るべからざるの靈を以て、之を淆(みだ)すを得んや。

意訳-06:〔《尚書・ 胤征》に「每歲孟春、遒人は木鐸を以て路に徇(とな)ふ」とあり、《礼記・月令・仲春》に「雷に先んずること三日、木鐸を奮ひて以て兆民に令して曰く『雷將に聲を發さんとす。其の容止を戒めざること有る者は、生子備はらず、必ず凶災有り』」とあるように、〕大昔の聖王が世の中を統御する場合、旧暦の二月(仲春)、〔春分の少し前、〕春雷が鳴る3日前に、遒人〔という広報官に相当する官吏〕が木鐸〔という内側に木製の舌(ぜつ)を備えた金属製のハンドベル〕を振って〔鳴らし、〕万民(兆民)に警報を発令して、「もうすぐ春雷が鳴ろうとしています。〔雷鳴が鳴っている時に〕寝室での振る舞い(=夜の営みを指す)を戒め正さない人は、生まれてくる子供には障碍があり、必ず災難(凶災)に見舞われるでしょう」と言った。

 〔聖王がわざわざ警報を発令している〕ということは、ヒトが生まれつき障碍者(不具)であったり災難(凶災)に遭うのは、風や雷の異常現象(非常の變)にも起こし得るということだ。〔ヒトの生まれつきの才徳などに影響を及ぼすのは、前段で述べた受胎時の歳や季節、太陽と月の位置、五惑星や星座の配置といった〕「六物」だけではないのだ。〔受胎時のあらゆる外的要因が、複雑に絡み合って胎児に影響を及ぼし、それによりヒトの才徳に生まれつきの個人差を生ぜしめているのである。〕
 〔古代の聖王が警報を発令するにあたって、ただ〕障碍(不具)と災難(凶災)のことだけを言うのは、〔それ以外の、例えば〕知能の高い低い(智愚・賢不肖)は、後天的な学習によって変えることができるし、また恵まれている恵まれていない(禍福・吉凶)もやはり自分の行為が回り回って招き寄せるところがあるし、〔壽命の長い短いについては〕知識階級(君子)ともなれば天命をそのまま受け入れて、壽命の長い短いのために〔我を失って人倫に〕背くことはなく、身を修めて〔自分がいつ死ぬかは〕天命に委ねるのが、〔聖人の〕教えの本道だ〔と弁えている〕からである。
 〔これらは本人の努力によってある程度回避できたり、あるいはもともと気に病むべきではない問題だが、こと先天性障碍(不具)と災難(凶災)は、本人の努力では如何ともし難いものの、両親が子供を作る際に少し注意を払うだけで未然に防げるトラブルであるため、聖王は人民の注意を喚起するのである。〕

 〔聖人が、〕ヒトが〔それぞれ異なる才徳を備えて〕生まれる仕組みついて論じた内容は、このように明瞭で、かつ余すことがない。どうして死後の分かるはずもない霊魂(靈)を持ち出して、〔話を〕混乱させることができようか、いや、できない。

余論-06:障碍と受難について。
 先天性障碍や災難について、宗教家であれば前世の因縁がどうの、先祖の供養がどうのと言い出すが、息軒はあくまで形而下の現象として説明付けようとする。前段では、妊娠時の父母の年齢と天体の配置が胎児の才徳に影響を及ぼすと説いたが、本段では《礼記・月令》の記述をもとに、妊娠時の気象が影響を及ぼすと説く。

 受胎時に雷鳴が響いていると、障害のある子どもが生まれるという説明は、やはり現代人には受け入れがたいものがある。ただ妊娠期間中に母親が強い精神的ショックを受けると、胎児の正常な発育に何らかの悪影響が出るという理屈であれば、納得できないこともない。
 ただ、災難に遭う遭わないまでが、受胎時の外的環境で決まるというのは、どうにも受容し難いが。

 だが、そうした理論の巧拙は些細な問題である。重要なのは、息軒がヒトの才徳の有無を形而下の現象として捉えていたという事、つまり前世の因縁だとか超越者の意志といった概念が排除された世界観を支持していたということである。

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