安井息軒《睡余漫筆・西洋に地動の說あり》03

03

原文-03:地動の說に據れば、地面日に面する處は晝となり、日に背する處は夜となる。故に日本の晝は「アメリカ」の夜なり。
 之を日月食に參考するに少しも違はず。
 一南一北し、春秋冬夏となる。鄭玄が日夜の短長均しからず、日の高低同じからざるを見て、「地三萬里の中に昇降す」と云へるは、北辰の常に其の處に居るを見て、其の誤りを知るべし。

意訳-03:〔西洋天文学が唱える〕地動説によれば、〔地球は球状であり、〕地表面の太陽に面している場所は昼となり、太陽を背にしている場所は夜となる。だから日本の昼は「アメリカ」の夜である。

 日蝕や月蝕について〔西洋天文学を〕参考にしてみると、〔例えば天保10年(1839)に江戸で観測された金環日蝕の日時・方角について、幕府の天文方が西洋天文学の理論によって事前に導き出した予測は、実際と〕少しも違っていなかった。

 〔太陽が照らす地表面は、地球の公転面に対する地軸の傾きが原因で〕南や北へブレて、〔そのブレが原因で気温の年較差が生じ〕春夏秋冬〔の四季〕となる。
 後漢の鄭玄が〔、彼は上述の渾天説を支持しているのだが、春分と秋分を除けば、一日のうちの〕昼夜の長さが等しくないことや、〔季節によって〕太陽の南中高度の高さが同じでないのを見て、〔“渾天説によれば、この宇宙は鶏卵のような構造をしていて、天空が卵殻のように世界全体を覆って一日に一回転し、その中心に大地が卵黄のように浮かんでいる。この大地は一年かけて上下にゆっくり振幅しており、例えば、冬至に最も高い位置にくることで、そのぶん太陽が大地の上方に出ている時間が短くなって夜が長くなり、さらに地表から太陽を見上げた時の高度も小さくなる。夏至にはその逆の現象が生じると考えて、〕「大地全体が三万里の幅で上昇・下降しているのだ」と言っているのは〔、もし渾天説がいうように太陽をはじめとする全ての天体が卵殻の内側に相当する天球上に位置しており、地上からほぼ等距離にあると仮定したうえで、鄭玄が言うように観測者の乗った大地が上下動することで黄道の高度変化が生じているとするならば、太陽に限らずあらゆる天体の高度が一斉に同じ変化をしなければおかしいので〕、北極星(北辰)が常にその定位置にあるのを見れば、その誤りに気づくはずだ。

余論:西洋天文学と鄭玄説に対する評価。
 息軒〈地動説〉とほぼ同じ。本段では「地三萬里の中を昇降す」の典拠が鄭玄であることが明記されており、〈地動説〉を補完している。

 「一南一北し、春秋冬夏となる」について。息軒が、地球の公転面に対する地軸の傾きが四季や南中高度の季節変化を生んでいたことを理解していたか否かは、未詳。ここでは「理解していたであろう」という前提で、”地球の太陽直下点が、北回帰線と南回帰線の間を南北移動することで、春夏秋冬の四季が生じている”というように意訳した。

  息軒は天保8年(1837)に飫肥藩職を辞し、翌年天保9年(1838)に妻子を伴い江戸へ移住している。したがって、天保10年(1839)の金環食を目撃したはずである。
 この天保10年(1839)の皆既日食にあたって、幕府の天文方は中国天文学と西洋天文学、それぞれの方法で日蝕の場所と時刻を事前予測して臨んだ。築地で観測した結果、西洋天文学による予測が正確だと判定された。本段の「之を日月食に參考するに少しも違はず」は、たぶんそのことを言っているのではないかと思う。
 それ以降、日本では西洋天文学が広まることになり、西洋天文学の成果を取り入れた天保暦が作られることになった。(といっても、それ以前の寛政暦も西洋天文学を参照しているのだが。)天保暦は日本最後の太陰太陽暦であり、明治5年の改暦まで施行された。

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