穿った思考に触れることがメンタルを安定させる

他者のnoteを見るだけで割と満足している。

フレックスを利用して朝7時に出社すると、だいたい誰もいない。
なので後ろ見される心配がないので、出社直後にフォローしている人のnoteの新着がないかを見る。

新着があり、noteを読んでるときは最高の時間だ。
やっぱそういう疑問持つよなー、とか思いつつ。(知った感じが失礼)

学生の時は数学関係のnoteを呼んだり、新卒のときは仕事関係のを読んだり、その時々の自分のイベントに関連したものを読むこともあるが、結局は「考え方」のような、少し抽象的な部分を捉えて発信している人のnoteに帰ってくる。

世の中に対して穿った見方しかできない自分と、部分的にでも似た人を探しているんだと思う。
(もちろん、自分の中では超自然な発想をしていると思っていて、なぜ他の人はそれを気にせず生きていられるのだろうと思っているのだが。)

ぼくは安心したいと思ってるのかな?
そんなことをイチイチ考えるから良くないのかもしれないが。
でも別に、発想が近い人が世の中に存在することを実感して安心するくらいは許されていい気がする。
それが「成長」につながるのか、みたいな意識高めな話はおいといて。

100人のうち、100人に1の価値を届けて、合計100の価値を提供できる人がいる。
100人のうち、1人に100の価値を届けて、合計100の価値を提供できる人がいる。

穿った人は後者のパターンが多いので、ハマると最高に読み応えがある。
洋楽を聴くとき歌詞の意味はあんまり分からないがなんか耳は幸せ、みたいな感覚とも近いかも。正直何を言ってるんだがよく分からないがなんかいい、ってのはある。もちろん完全に意見が同意するパターンもあるが、別にそうでなくともいい。

トー横やグリ下、ODで繋がってる連中だってそうだろう。
お互い何言ってんだがよく分からないが、「お互いよく分からん人生や価値観を持ってる」という点では繋がっていて、それが心地良いんだろう?

結局ぼくがnoteを見る理由も、そんな感じなんだろうと思う。
なんかよく分からん穿った発信が、ぼくのメンタルを安定させる。


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