1月15日に…


 10月29日
 神崎唯

 心臓の鼓動をイメージさせる薄くディレイの掛けられたバスドラムのビートに合わせ、流麗なピアノの旋律が静かに鳴ると、それを合図にエレキギターがボトム弦をアームダウンさせ、開放弦を掻き鳴らし暴力的な音で全てを壊し始める。その数十秒後、少しだけ上ずった声が歌を歌い始める。

 〜時々こんな風に思うことがあるんだ。あなたの為は自分の為と。たくさんの事を犠牲にしたなんて、言っては誰かの何かを奪って~

 帰宅途中のタクシー。カーラジオから不意に流れてきた小川恭二の「heaven」を唯は窓の外を眺めながら口ずさんだ。
 2つの歌声は窓に叩きつけられる激しい雨の音で書き消されていた。

 唯にとって、小川恭二の歌は青春のすべてであり、人生の道しるべであった、と言っても過言ではない。

 唯が高校3年の夏にリリースしたサードアルバムの、冒頭を飾るその曲は恭二最大のヒット曲となった。
 そして唯の一番のお気に入り曲だった。

 曲が終わるとラジオのMCは「さあ、CМの後は病魔に打ち勝って3年ぶりに10枚目のアルバムをリリースし、LINE CUBE SHIBUYAでの復活ライブも予定されている小川恭二さんご本人が登場です!!」と叫んだ。

 CMが明け、恭二は自分を襲った癌のことに触れ、ニューアルバムの話に移ったタイミングでタクシーは自宅についた。

「ただいま~」
「あ、ママおかえり」リビングから娘の沙月が顔を出す。
「どうしたのその髪の毛の色」と唯が驚くと、沙月は、 「さっきバーバが来ていたから髪の毛染めてもらっちゃった!」とオレンジ色の毛先をクイっと指先で持ち上げ唯に見せた。
「えっ、お母さん来ていたの?」
「うん、お店で新しいシャンプーとリンスが入ったからって持ってきてくれた。ついでに沙月の髪も切ろうかって言っていたけど断った」 といって沙月は顔の前で手でバツ印を作った。

「未だに現役美容師だからか来る度に切ろうか切ろうかって言うね」と沙月は笑った。
「まあ、最近はお店も暇だからねえ、もう年なんだからそろそろ仕事をやめてほしいよ」と唯がため息をつく。
「パパは?大輔を迎えに行った?」
「うん、バイト終わって合流したって今連絡があったよ」
「そう、わかった。バーバにも後で連絡しとく。今からご飯の支度しちゃうね」と唯がキッチンに入ろうとすると沙月は 、「じゃ〜ん」と言って黒のワンピースを出した。
「なにそれ?」と唯が怪訝そうな顔をした。
「日曜日にハロウィンのイベントにマナミと参加するのよ」と言いながらそのワンピースを体の前に合わせた。
「センター街でやるやつ?」と唯は冷蔵庫の扉を閉めながら言った。
「正解!!」と言いながら沙月はリビングに戻っていった。
「それで髪の毛をその色に? ふーん。まあでも、気をつけなさいよ!もの凄い人なんだろうから」と言ったが沙月からは返事がなかった。
 まだ何か言いたそうだった唯は諦め、手にした包丁を一旦置き、スマホのアプリで先ほどの続きを聴きだした。
 MCの質問に丁寧に答える恭二が、来年復活の全国ライブツアーを1月15日からやると話しているところだった。

「1月15日か……」唯が呟いた。

 


11月13日
 江口香苗
 里中景

「もしもし」
「香苗?久しぶり~‼」
「おひさ~」
「もしかしてあの返事?」
「イエス」
「あ〜ゴメン唯からも昨日着信あったわ。だけど平日でしょ〜? そもそも私どこに住んでるか知っているよね?」
「福岡」
「旦那がどうなのか知っているよね?」
「広島に単身赴任」
「子供がどういう状況なのかも知っているよね?」
「上の子たちは社会人だけれど、大分歳が離れた長女がいる。現在3歳」
「でしょ? だから、ちょっと今は遠出は出来ないよ~。まあ、唯と香苗と会うのも7年ぶりだからさ、本当は行きたいけれど、ゴメンよ」 と景は何度もゴメンと繰り返した。

 香苗と景は同じ高校の同級生だった。
 陸上の特待で入学し、日々部活に明け暮れていた香苗と、休み時間は静かに小説を読んでいるような大人しい景が親しくなったのはお互いが小川恭二のファンだということを知ったからである。
 きっかけは1年の夏休み、たまたま地元の駅前にあった小さなCDショップに恭二の2ndアルバムを買いに行った際、店内で鉢合わせ、何を買いに来たのか?という会話からだった。

 店内には一枚しか置いていなかったCDをとりあえず香苗が買い、二人はそのまま香苗の家に行き、部屋で新譜を聴きながら時間を過ごした。

 高2の春、香苗と景と同じクラスになった唯も恭二ファンということを知り3人は急速に仲良くなった。

 恭二はまだ知名度は低くライブハウスを精力的に回っていた頃だったが、香苗はまだ部活が忙しく専らライブは唯と景2人で行っていた。

 3人が高校3年の夏に映画の主題曲として使われた「heaven」がヒットした。
 これにより、恭二のライブ活動のキャパは広がり、テレビにラジオ、果ては役者としてドラマや映画にも出るなど、活動は多岐にわたるようになった。

 そんな恭二の活動を香苗の部活引退を契機に3人で追うようになった。

 高校卒業後、景と唯は別々の大学に進学をし、香苗は就職をした。

 ここから20歳くらいまで、3人は頻繁に恭二のライブに通った。

 

11月15日
 神崎唯
 江口香苗

「ゴメン!急にお客さんに呼ばれちゃって」と新宿にある行きつけの居酒屋のテーブルに着くなり香苗は言った。
「忙しそうね」
「て言うか、せわしない?って感じね」おしぼりで手を拭きながら香苗は言うと、店員にビールを頼んだ。
「景は残念だったね」と香苗が言うと、少し寂しげな表情を浮かべながら唯は俯き、無言で2度頷いた。
「まあでも、恭二も復帰したのなら、またライブもやるんだろうし、3人揃うタイミングもあるよ!」

 唯が黙っていると「大体、卓哉がだらしないのよ」と景の夫の事を言い始めた。

 景の夫である里中卓哉は、唯と同じ大学の同じ学部で軽音のサークルまで一緒だった。
 卓哉は自身のバンドで小川恭二の曲をサークルの新歓コンパで披露したことから唯と仲良くなった。

 ライブにも誘ったことがあり、卓哉との仲も続いた。

 景と香苗に卓哉を引き合わせたのは唯だったが、その後卓哉は景と付き合うようになり、2人は大学卒業のタイミングで結婚をした。お腹には既に新しい命が宿っていた。

 酒の回って来た香苗は会話が途切れると卓哉の事に触れだす。
「卓哉はね、流されやすいのよ、だから3歳の芽衣ちゃんを置いて広島なんか行っちゃうんだから」

「まあまあ香苗、もうやめてよ。まだ私にも少し考えているところがあるからさ」

「それより、少し仕事もセーブしなよ」唯が窘めると、「我が家は大黒柱の私が働かないと娘の大学費用は作れませんよ。唯みたいに優しい旦那さんなんかいないしね~」香苗はそう言いながらビールジョッキをドンと置いた。

 少し間を置き香苗は小さな声で「5年前から忙しくなっちゃったからね。でもまた恭二がきっかけで2人と会えるのならこんなうれしい事ないよね」と言った後、鼻水をすすり始め、「私は~、唯から~、またライブに行こうと誘われた事がとても嬉しかったのよ」と、突然泣き声になりハンカチを取り出し顔を覆った。

「はいはい、吞みすぎたね」と慣れた手つきで唯は香苗の頭を撫でた。
 突っ伏していた香苗がスッと顔を上げ「あんたは20歳でお酒絶ったもんね。つか、そんな人いる?」と真顔で言い返した。

 唯はそんな昔の話は良いのと、照れ笑いをした。

 進学をしなかった香苗は陸上の経験を活かし某スポーツメーカーに就職をし、営業職として唯や景が大学を卒業する頃には社内で頭角を現し始めていた。
 音楽が好きだった唯は大学を卒業し、大手レコード会社に勤務していた。当時恭二が所属していたレコード会社に勤めたかったという夢は叶わなかったが、ファンとしての活動は続いていた。
 そして景は、結婚して出産をするとライブどころでは無くなった。
 香苗は仕事が忙しくたまにライブ参戦出来ない時もあったが、唯はライブの為に普通に有給などを使っていた。
 ある時酒の席で、香苗に「有給使ってライブって、それはし難いな~」と言われ、景も香苗もそこまでのファンだったんでしょ!と悪態をついたこともある。
 それぞれが社会人となりファンとしてのスタンスに微妙なズレが生じてきていた。
 そんな唯も30歳を過ぎ、職場の上司と結婚をすると、恭二のライブからは遠退いてしまった。

 

12月23日
 神崎唯
 里中景

「もしもし唯? ありがとう!!」
「クリスマスまで開けないでよ」
「もちろんもちろん。芽衣喜ぶわ~今、めちゃくちゃアンパンマンにハマっているからね」
「景も元気?」
「元気よ〜つうか、疲れたなんて言っている暇無いわ」とケラケラ笑った。笑い方は昔と変わらないと唯は思った。
「クリスマスは卓哉帰って来るんでしょ?」
「そうだと良いんだけどねえ」

「それより恭二のライヴ、あれからも何とか都合つくようにとは考えていたんだけど、ゴメンね。せめて卓哉が居てくれたら行けるんだけどさ。真人は平日は出勤だし、海斗は独り暮らし始めちゃってさ。ホント、2人とは7年ぶりだし恭二のライヴは多分15年ぶりかな?だからどうしても行きたかったの。また3人で呑みたいしねえ」

 景の東京に行けない理由を矢継ぎ早に聞いていた唯だったが、昔の様な不快感はなかった。

 唯にとって、恭二が日々の生活の全てであり道しるべだった学生時代。そして社会人として生活を始めた頃もそれは変わっていなかったが、今は違った。

 景は出産を機に、香苗は仕事の忙しさ充実さと共に恭二というアーティストからは離れていったとは言え、3人の友情に何か変化があったわけではなく、それぞれが結婚出産昇進をすれば皆心の底から祝い喜びあったし病気をすれば心配もした。
 そして、多忙の合間を縫ってたまには食事をしたり、旅行にも行ったりと、事あるごとに交流は続いたが、時が経つに連れ、恭二の話題に触れることも無くなっていった。

 そんな風にして3人は歳を重ねていった。
 唯もこの10年やはり自身の忙しさにかまけて恭二の事を忘れているようなこともあり、3年前の病気療養についてはまるで知らなかったくらいだ。
 ハロウィンの数日前、帰宅途中のタクシーの中で不意に聴いた恭二の曲。そしてライブの告知。

 唯は、今こそ2人にしなければならないことを悟った。 そしてあの日の懺悔を。

 


1月15日
 10時30分
 江口香苗

 年明け早々荒れに荒れた寒波により都心では珍しく大雪となった。渋谷周辺もまだ雪が残っていた。

 待ち合わせの時間にはまだ早かったのだが、急遽、景が上京出来るという報告を受けテンションが上がっていた香苗は羽田空港の駐車場にいた。

 唯が待ち合わせに指定した場所は笹塚駅の前だった。

 恭二のライブは同じ渋谷でも「LINECUBESHIBUYA」で行うのだが唯はなぜかそこを指定してきた。
 待ち合わせならばハチ公前で良いのにと事前に言ったものの唯はそこで待っていてほしいと言ったのだ。



11時
 里中景
 江口香苗

 香苗は11時過ぎに、大きなキャリーバッグと手荷物を持ってゲートに現れた景を見つけ、大きな声で名前を呼び手を振った。
 その声に気づいた景は一旦立ち止まり同じように手を振る。

 そして近くまで来ると「香苗!!」と言い抱きついてきた。
 香苗は景の背中をポンポンと叩きながら「久しぶりだね」と言った。

 景は「にしても、なんで笹塚なの? ハチ公前で良くない?」と香苗と同じ疑問をぶつけた。
 香苗は両手を広げ首を傾げるだけだった。
 景は、福岡のお土産などがあるとバッグから出して見せてきた。
 香苗は「ちょ、今はやめよ。後で唯も来たらゆっくり見させてもらうから」と窘めた。
 景も香苗同様気持ちが高揚している様子だった。
「しかし、この土壇場で卓ちゃんグッジョブだね」と香苗が言う。

「3日前よ? 上司から有給を使えと言われたからって帰宅するからという連絡。なので唯との話をしたらさ、是非行って来いだもん」と景。
「そんなことが出来るのなら最初から相談すれば良かったよ」
「後で私からも卓ちゃんにお礼を言わせてね」

 2人の近況報告は止まることはなかったが、「とりあえず車まで行こう」と香苗は景のキャリーバックを持った。
 そして香苗の軽自動車で一路笹塚駅へと向かった。

 笹塚には待ち合わせ時間の12時より前に着いた。
 コインパーキングに停め、約束の場所まで2人は歩いて行った。

 

12時15分
 神崎唯
 里中卓哉

 コインパーキングに車を停めた唯は卓哉にLineを送った。
「今回は私のわがままを聞いてくれて本当に感謝します。ありがとう。芽衣ちゃんと卓哉にはたんまりお土産を買ってあるからね」
 すぐに返信が来た。
「唯の気持ちを聞いてしまったのだから、そりゃ協力しないわけがないだろ(笑)兎にも角にも成功を祈る」

「ありがとう。これからミッション開始よ」と唯が返すと、親指を立てたスタンプが返って来た。

 

12時30分
 神崎唯
 江口香苗
 里中景

 景は「まさか東京で雪を見るとは思わなかったなあ」「あ~ハチ公にも早く会いたい」「バイトしていたお店まだあるかなあ」「渋公だってなくなったしねえ」と捲し立て、久しぶりの東京に興奮を隠せない様子だった。
「それにしても遅いね唯。時間は絶対に守るし、何より義理人情に厚い昔堅気な女なのに」とおどけながら景が言うと香苗は「酒癖は悪いけどね」と言った。「あんたもでしょ」と景は笑い、「いやいやいや唯には負けるけど」と香苗が切り返すと「あの子は未成年時代にしこたま吞んでいたからね」と言って2人は大きな声で笑った。

 とその時。
「お待たせ‼ 楽しそうね」と2人の背後から声がした。声の主は唯だった。

 2人は同時に声のするほうへと振り向いたが、唯の出立ちを見た瞬間、それぞれが、

「え?」
「ちょっと!」 
 という驚きの声を上げた。

「振袖?」「怖い怖い」「なんで?」「今の恭二のライブはコスプレして行くの?」等と矢継ぎ早に唯は詰問された。

 唯は七飛翔鶴が鮮やかにデザインされた紺色の”振袖”を着ていたのだ。

 2人の驚きを余所に「景!!久しぶり!!」と唯から抱きついて行った。

「久しぶりだけど、唯、まずその恰好はどうしたの? 積もる話はその後よ」と景が問い正した。
「わかった。じゃあ、2人に見せたいものがあるから私の車まで来てくれる?」と唯は言うと、踵を返し歩き始めた。慌てて2人は後を追う。
 5分ほど歩くとコインパーキングがあり、唯の自家用車にたどり着いた。

 唯は後部のスライドドアを開けると。2人に向かって「じゃーん」と言った。

 そこには2着の振袖があった。

 緑色の振袖には薔薇が、クリーム色の振袖には西洋牡丹が、唯のもの同様鮮やかにデザインされていた。

 景は冷静な口調で「そうだ、とりあえず今日は唯の家に泊めてもらえることに感謝します。助かります。お土産はそれぞれの家族たちにも沢山買ってあるからね」と言った。目の前の振袖に触れることはなかった。
 香苗は「あんた振袖販売の仕事始めたっけ?」と聞いた。

 唯は「それをあなたたちに着てもらいたいの」と言った。

「はい?冗談でしょ?私たち何歳だと思っているの?」
「さっきも聞いたけど恭二のライブは今、皆こういうコスをして見ているってこと?」
「車の中で振袖が着られる?」

 景と香苗が同時に捲し立てた。

 車通りの激しい雑踏のコインパーキング。歩行者の数も多く、2人の響声に視線を向けるものもいた。
 その刹那。笑みを消した唯は少しだけ俯いたまま、

「恭二のライブに行く前に、私たちだけで成人式をしたいの……」と言った。

 目からは涙が流れていた。

 その瞬間、景と香苗は周囲から音の消える気配を感じた。

 そして今度は何の言葉も2人は出さず、遠い日の記憶を掘り起こしていた。

 



遠い日の1月15日
 9時25分
 遠藤唯
 江口香苗
 上野景

 3人は渋谷公会堂で開催される成人式に行く為、ハチ公像の前で待ち合わせをした。

 その日は式に出ることが目的というよりも学生時代の友人に会うことが最大の楽しみであり、3人は旧友らと会場前で記念撮影をしようと目論んでいた。

 そしてそのまま新宿に移動し、夜は小川恭二のライブを3人で観るつもりだったのだ。
 唯は前日の深酒の為顔が腫れていると香苗に指摘され顔を赤らめていたものの、妙なハイテンションにあり、「今朝着付けしてもらう時もお母さんに怒られたわ、景は何も言わないでねえ」と笑った。
 その日朝方まで大雨ではあったが待ち合わせの時間頃には止んで3人を祝福するかの如く渋谷上空には青空が広がっていた。

 唯たちはまだ時間も早いのでブラブラ歩きながら行こうと画策した。

 そして、振り袖姿の3人は少しだけ遠回りをして渋谷公会堂へと向かい始めた。
 誰がやめることもなく、取り留めの無い話を延々と繰り返しながら3人は歩いていた。
 やがて道中に公園を見つけると唯は滑り台の上で写真を撮りたいと言い出し、使い捨てカメラを景に渡し、香苗の危ないからやめなという助言を無視し、ぎこちなくではあったが階段を登った。

 が、滑り台のてっぺんにたどり着いた時に草履が滑った為、バランスを崩した唯はそのまま頭から泥の水たまりに落下したのだ。

 カメラを構えていた景は叫び声をあげ、香苗は走って受け止めようと動き出したものの寸でのところで間に合わなかった。
 水たまりの中で動かなくなった唯を見て公園にいた大人が駆け寄ってくれた。

 すぐに救急車を呼んでもらい唯は病院へ緊急搬送された。2人ももちろん付き添った。
 幸いにして唯は軽い脳震盪だったので命に別状は無く、夕方には意識を取り戻していた。
 しかし景も香苗も帰宅はせず、唯に付き添った。
 香苗の泥の付いた晴れ着は唯の母が脱がせ、唯の部屋から持ってきたとりあえずの着替えを2人に渡した。
 母はただひたすら2人に謝っていた。
 そして、目覚めた唯に、母は叱責をした。
 あんたの軽率な行動で、この子達の振袖も成人式も台無しになった。
 それでもずっと付き添って声をかけてくれていたのよ、と。
 命の恩人以上よと。
 泣きながら怒る唯の母に景と香苗はひたすら落ち着いてくださいと窘めていた。

 大事を取り2日程入院をした唯は脳波などの異常もなく経過は良好だったが、ずっとベッドで泣いていた。
 景と香苗はひたすらそんな唯を慰めた。

 事故の日の事は覚えていない唯だった。

 


1月15日
 15時26分
 遠藤昭子
 神崎唯
 江口香苗
 里中景

「よし!もう良いかな。2人とも似合うよ」と唯の母、昭子が言った。
「おばさん!ありがとう!」と香苗。
「着付け中はちょっと恥ずかしかったけど、なんかワクワクしてきたよ」と景。
 2人は唯の車で笹塚に移転していた唯の母が営む美容室に行き、着付けをしてもらったのだ。
「頭はちょっと手抜きになっちゃったけど、可愛いよ」

「お母さんありがとう!じゃあこれから渋谷に行ってくるね!」と唯が言うと、昭子は「気を付けてよ」と運転をするポーズを取った。そして、体の向きを変え「香苗ちゃんも景ちゃんも、その節はホントにこのお転婆バカ娘が心配と迷惑をおかけしてすみませんでした。なので今回唯からのお願いには二つ返事で引き受けさせてもらったよ」 と頭を下げた。

 

17時20分
 神崎唯
 江口香苗
 里中景

「今のセンター街って平和な感じがするよね~」と、センター街を見下ろすカフェで頬杖を付きながら景が呟いた。
 すかさず香苗が「昔も今もそう大差ない感じはするけどねえ」とやり返す。
「だけど、確実に何かは変わったよね」と唯が言うと、3人に沈黙が広がった。
「私たちがフケたってことでしょ?」と香苗はそう言って笑った。
 さ、そろそろ行こうか、と唯が促す。

 17時45分
 景はライヴ会場を見上げ、ひとしきりため息をついた。
「LINECUBEとかいってたけど、渋公がそう変わったのね。知らなかったし、もう私わけわからんわ」と香苗に耳打ちした。
「はい!はい!こっち見て!」と、唯は振り袖姿の景と香苗にスマホを向けた。
 会場付近にはライヴを観るためのファンが集まってきていたが唯はお構い無しに2人を撮り続けた。
 3人で収まる時は通行人にも撮影をお願いしていた。

 平日の6時前ではあったが渋谷公園通りは人通りも沢山あった。
 そして、かつて成人式を行うはずだった旧渋谷公会堂の前で妙齢の女3人が、振袖姿でキャッキャ言いながらスマホ撮影をしている様子を気に留めるものは誰もいなかった。

「香苗、景、こんな思い付きの成人式であの日のお詫びになんかならないと思うけど」と言う唯に香苗が、

「もうさ、あの時に死ぬほど謝られたしもう良かったのに」

「でも、唯の中でずっと晴れないモヤがあったってことなのかな?」と景が唯に向って言うと、無言で唯はうなずいた。

「恭二のライブが1月15日だったってことでなんか、ブワーっとどうにもならなくて」唯はそう言い、そしてまた泣いた。
「しかも建物は変わってしまったと言え渋公だもんね」と景がいう。
 無言で唯は頷いた。

 
19時

 1階中央後方に3人はいた。

「さすがに振り袖姿の人なんかいないねえ」景が呟いた。
「キョロキョロしない」と香苗が言う。
 左右にいる落ち着かない様子の2人を無視し唯はステージの1点を見つめていた。

 場内のBGMがフェイドアウトする。そして照明が落ちると、歓声と拍手が起きた。
 SEがかかりバックメンバーが袖から出てきて定位置につく。

 私たちの青春の全てだった小川恭二のライヴが始まる。

 心臓の鼓動をイメージさせる薄くディレイの掛けられたバスドラムのビートに合わせ、流麗なピアノの旋律が静かに鳴ると、それを合図にエレキギターがボトム弦をアームダウンさせ、開放弦を掻き鳴らし暴力的な音で全てを壊し始める。

 小川恭二は右手を高々と上げ「ありがとう!!」と一声をあげ、その数十秒後、少しだけ上ずった声で歌を歌い始めた。


 〜時々こんな風に思うことがあるんだ。あなたの為は自分の為と。たくさんの事を犠牲にしたなんて、言っては誰かの何かを奪って~


 唯は右にいる景の左手を、左にいる香苗の右手を、強く握った。


 ~終~


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