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表面という名の中身

東京にいるからなのか、あるいは茫洋とした社会に生きているからなのか、表面的なものをなぞる生活の型に嵌められているような気持ちによくさせられる。
具体的にそれはなんなんだと正面切って問われると口ごもってしまうけれども、簡単に言えば労働をもって生活のために必要な金を稼ぎ、綿々と暮らしていくこの営みそれ自身に他ならない。
生きるというのは他人と関わり合うことだが、本当に「関わった」と心の底から言えることなどほとんどない日々だ。
表に出れば沢山の人に会うし、仕事をすれば会話や感情のやりとりすら交わす。
にも関わらず、結局振り返って冷静に考えてみて、実感として本当に手触りのある何かを掴んだような気持ちについぞなれないのはどうしたわけだろう。
それは一つには自分が臆病すぎてどこにも踏み込めないでいることが大きな要因としてある。なるべく一人になりたがり、人からのアクションや連絡は恐る恐る眺め、最後の最後にようやっと返事をするというような有り様では、フェアではないというか、永遠に自分の手も明かさずに他者からの熱心な関わりだけは欲しいわけという塩梅で、虫が良すぎる。
とはいえ同じことの繰り返しでパターンにはまったことを延々繰り返していると人間の意識レベルはだんだん低下し鈍麻していって、ついには何をしてても特段のときめきもないし、面白いことなど何一つないような気持ちにさせられてしまうのもまた事実だ。
生活ってやつは頑強な存在感を持っていて、なおかつ常に維持しつづける忍耐力を人に要求する。これを自然なこととして受け入れられるかどうかに最初の分水嶺がある。
生きていて何を成すにせよ、それは生活の基盤から生まれるものであり、何かをするその前にすでに生存する、という一大事業を人はやっつけなければならないし、それなしには何もできない。無理やり生活を無視して何かをしようとすればそれは無軌道、破綻につながり、往年のパンク歌手みたいにあっという間に人生にピリオドを落とす、まあ、それも一つの美学、生き方の形ではあるからそれにもなにかの意義はもちろんある。ただ今自分はそういう風な形を望んではいない。
「ただ生きるだけで大したものだ」とビートたけしの名言にある。まったくその通りで、ただ生きること以外に何かを望むなんてなんて強欲な、恵まれた選民思想なんだと思わないでもないのだが、とはいえどうしても俺の心が何か確かな手応えのあるもの、生きることそのものの「中身」について欲求してしまうがために色々と大変なことになっている。

もしかすると、今見ている以上のものはないのかもしれない。つまり実際には俺は常に「中身」と対峙し続けているのかもしれない。
表面ばかりなぞらされて結局一番面白いところにはいつもたどり着けないんだと思っているのは自分ばかりで、心を開いたらそこは中身しかない充実した世界なのかもしれない。
表面、上っ面と思っているものごとそのものが、本当は中身であり、あらゆる実感も実質も真理もそこにしか存在していないと悟ることが、もしかしたら大人になる、ということなのかなと今の時点では思う。

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