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5月20日 体を使う高度の知識労働


おはようございます。昨日の続きです。

#ドラッカー #365の金言 #5月20日 #体を使う高度の知識労働    #知識労働にも肉体労働の部分がある

このNoteは、「ドラッカー365の金言」に記された1日1テーマに対して、自分の感想や想い、そして、私自身の実践について書いたNOTEです。本文そのものを全て引用することはありませんので、ドラッカー博士の論文をお読みになりたい方はぜひ本書をご購入されることをお勧めします。

https://amzn.to/3sucDVe

“汝の時間を知れ“ ドラッカー

上記は本書の扉の次のページに記されていたメッセージです。これは「時間は無限ではないから集中せよ」という意味かも知れません。ドラッカーの65年以上にわたる著作集を読み続けるほどの時間がない方のために、本書がある、という意味かも知れませんね。

編者のマチャレロ教授は

“最後にACTION POINTとして取るべき行動を示唆した。ここでお願いしたいことは、読者ご自身が「すでに起こった未来」を探すことである。新たなトレンドを見出したならば、ドラッカー学校の伝統に従い、自ら行動していただきたい。“


と記して、本書を実践する書、として欲しいと述べています。

著作権等の関係から、日々のドラッカー論文(つまり、本書の本文)を全文引用することはしませんので、ご関心の方はぜひお手元にお持ちになることをお勧めします。


今日のテーマ:体を使う高度の知識労働


今日のアクションポイント: 

#あなた自身の仕事を知識集約的な部分とそうでない部分に分けてください

#後者の部分にIE (インダストリアル・エンジニアリング)の手法を適用してください。

テイラーによる生産性向上の方法「科学的管理法」は手仕事、手工業、肉体労働にとってまだまだ大きな役割を果たし続けている。そして、テイラーといえば、チャップリンのモダンタイムスで描かれているような、非人間的な流れ作業を発明した、機械中心の働き方を強いた人物ではないか!と誤解されている。


しかし、実際にテイラーの著書には工場の作業を良くすることで社会を良くしようというヒューマニストな考え方が示されている。

テイラーが目指していたのは、労働に対する最も「ヒューマニスト」的な考え方に沿ったものだったのです。テイラーからトヨタ生産方式も生まれ、発展したわけで、テイラーを批判するならトヨタも批判せねばなるまい。

さて、今日のテーマは、知識労働者の生産性を高めること。

最近では知識労働者の間で「ブルシット・ジョブ」(クソどうでもいい仕事)が増えているそうです。

ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化し難いほど、完璧に、無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。(「ブルシット・ジョブ」)

なくても済むのに、部下を監督するマネージャー職、ただ書類を回すだけのコーディネーター職など「なくてもいい職」なのですが、高給取りだそうです。もしかしてコンサルもそう?(ヤバい。。。)

こうしたブルシット・ジョブが企業のスリム化、生産性向上を妨げていると言います。なぜか。

はっきりいえば自動化は特定の作業をより効率的にするが、同時に別の作業の効率を下げる。(「ブルシット・ジョブ」より)

仕事を分析するため数値化がなされ、それによって生産性を「見える化」しようと努力すればするほど、その業務が膨大となり、かえって組織全体からみれば非生産性の部署が大きくなり、結果的に効率が悪くなり、合理化から遠くなる、というわけです。

日本企業もそうですが、米国企業でも、90年代以降、生産性が上がっても賃金が上がらなくなったそうです。なぜなら、給料を増やすためではなく、管理のための部門強化に費やされ、事務職が増えたのだとか。その管理部門が生産や営業の現場に色々口出したり、外部のコンサルを雇ったり、研修したりと、「よかれ」と思って管理部門が進めたことが、現場を混乱に巻き込み、費用と時間ばかりがかかり、非生産性な「ブルシット・ジョブ」に人もお金も費やされ、全社的にみれば、結果的に得られた利益を失ってしまっていた、と言います。

そして、このコロナ禍、リモートワーク、という働き方によって、生産性の尺度が変わってしまいそうになり、必死に現状維持にしようと揺り戻そうとしているようにも見えます。

米著名マーケッターのセス・ゴーディン氏の5月12日のブログには、

「上司はあなたの時間を買っているのか?それとも生産性を購入しているのか?」

とあります。在宅ワーカーにとっても、上司にとっても非常に興味深い質問です。あなたの給料は、時間提供への貢献として支払われているのか、それとも、あなたが産み出した生産性に対する貢献として支払われているのでしょうか。

今、多くの知識労働者にとって在宅勤務が当たり前になることが約束されたり、脅かされたりする中で、この問題が再び浮上しています。

知識労働者であればあるほど、あなたは、自分の時間を会社に売っているのか、あるいは生産物、アウトプット、成果が購入されているのかが問われ始めているのでは?

生産性や貢献度を測ることが容易になるにつれ、また、明確に説明できる作業はすべてアウトソースすることが容易になるにつれ、道が分かれてきました。

貢献度が測ることが容易になっていく中で、作業はアウトソーシングが可能となりました。例えば、当社でも、広報PR露出の腕を見込まれてアウトソーシング業務として貢献しています。そうなると、従来社内にいた従業員の役割は、発注者として依頼し、請求書を回すくらいで、社内に広報スタッフがいる必要があるかないか、みたいなところまで容易に話は進んでしまいます。自分が所属する組織、企業に存在する理由を失ってしまい、リストラ、となるケースも出てくるでしょう。

成果で測られている、ということは、アウトソーシングされるということです。知識労働者の多くの仕事は、アウトソーシング化可能、ということになっていくかもしれませんね。

特に、人事・総務系の管理業務は、営業やマーケティング、製造生産部門に比べて費用を投じる理由を正当化しにくい部門です。社員のメンタルヘルスチェックなどに費用を投じても、その結果、売り上げが伸びる、なんていう相関関係はどれだけ調査しても現れません。管理部門はそれではメンツが潰れるから、と少しでも有用、有益である、というデータを経営陣に示すために、さらに不必要な調査費用をかける、という負のスパイラルが明らかになった、ということでしょうか。特に、このコロナ禍において、ホワイトカラー職の部門も必要・不必要の判別に取り掛かっている企業も少なくないと聞きます。

数年前に人事系、組織改善系のイベントに参加したことがありますが、彼らの提案の大半は経営者には響かんだろうな、と思えるような「机上の空論」が多かったことを思い出されます。

さて、ドラッカーの今日の提言は、肉体労働でない、知識労働分野であっても、テイラーの方法論が有効な分野もあるので、それを採用してみては、という提言と思われます。

仕事の分析は、作業を明確化することから始まるのではない。所望の最終製品は何かと規定することから始まるのである。「我々は一体何を生産したいと思っているのか。そのための「仕事」とは一体どんなものなのか。また最終製品をどのように設計しておけば、仕事を最も楽に、最も生産的に、最も効果的に遂行できるのか」。(「マネジメント」上巻(1974年)329ページより)

ホワイトカラーとか働くものを分けるのではなく、誰もが生産性向上が必要です。


今日もやっていきましょう。



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