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12月24日 Human Existence in Tension 人間の実存

おはようございます。今日はクリスマスイブでございます。今年もありがとうございます。今日も #ドラッカー #365の金言  で人生と経営を深めて参りましょう。

本日 #12月24日  テーマは、 #Human_Existence_in_Tension (緊張状態の中の人間の実存)

#人間の実存  

クリスマス・イブだからでしょうか。

今日、明日は、「信仰」キルケゴールの実存哲学です。

#人間の実存は個と市民という2つの実存の緊張状態においてのみ可能である

 社会自体の合理性の解体と、個と社会の関係における合理性の喪失こそ、現代社会の際立った特徴である。
 社会は、人が社会において生きることを望むのであれば、絶望せずに死ねるようにしてやらなければならない。その方法は一つしかない。個々の人間の人生を無意味化することである。一人ひとりの人間が、人類という樹木の一枚の葉、あるいは社会という肉体の一つの細胞にすぎないとするならば、死は死でなくなる。集合的な再生の一つの過程にすぎなくなる。
 もちろん、そのとき人生もまた人生ではなくなる。それは、生命全体のなかの一つの機能的過程にすぎず、全体との関連がなければ、いかなる意味ももたない存在となる。このようにして、人の実在を社会における実存とする楽観主義は、直接絶望へといたる。その絶望は全体主義に通ずるしかない。
 だが、人の実在は、絶望における実存、悲劇としての実存である必然性はない。信仰における実存が可能である。信仰とは、神において不可能が可能になるという確信、神において時間と永遠が一体となり、生と死が意味をもつとの確信である。(『「経済人」の終わり』『すでに起こった未来』12章 もう1人のキルケゴール 死の問題 288〜289ページより)

ACTION POINT
#個としての存在と市民としての存在という2つの実存の間における緊張状態について考えてください

今日のは、実存とか用語満載で、正直よくわかりません。アクションポイントは、「緊張状態について考えよ」というし。。。

2つの実存の間における緊張状態ってなんでしょ?手元にある「すでに起こった未来」を読み直してます。

今日のアクションプラン部分の原文は次の通りです。

ACTION POINT: Reflect on the following: “Human existence is possible only in tension – in tension between man’s simultaneous life as an individual in the spirit and as a citizen in society.(訳:以下のことを考えてみてください。「人間の存在は緊張関係の中でしか可能ではない。すなわち、精神における個人としての生活と社会における市民としての生活が同時に存在するという緊張関係の中でである。)


 人間の実在はいかにして可能か、を問うた。答えを示したのはキルケゴールだけだった。キルケゴールの答えは簡単である。彼(キルケゴール)によれば、人間の実存は、精神における個人と社会における市民を同時に生きるという緊張状態においてのみ可能である。(中略)特に、「永遠」と「時間」という2つの次元の同時的実存に伴う緊張状態として、明確に描写した。(『すでに起こった未来』12章 もう1人のキルケゴール 人間の実存 279ページより)

 (1)実存、(2)個としての存在、(3)市民としての存在って?(4)緊張状態ってなんだろ?わかったようで、わかんない言葉があるから、全体もよくわかんないっすね。

そもそも、キルケゴールはどんな人なんでしょうか?

デンマークの宗教思想家です。


(1)実存とは、

人間の実存を哲学の中心におく思想的立場。あるいは本質存在(essentia)に対する現実存在(existentia)の優位を説く思想。
神の前に教会を経ずに立つ単独者としての、自己自身の「実存」(existenz )を価値としたキルケゴールは、実存哲学の嚆矢ともいわれる。その場合に、信仰者を前提とした制約された姿勢がキルケゴールの実存にはある。

「今ここに私がいる」「今ここに私が生きている」という自分の存在を大切にすること、だそうです。平たくいうと、「存在」と同じでいいんじゃないか、と思います。

(2)個としての存在、

(2)個としての存在、は、ちょっと舌足らずと思います。前述のように、「精神における」を省略したんでしょう。それじゃわからないですよね。「精神における個人としての生活(存在)」でしょう。で、それはどういうことか、というと、280〜281ページに書いてあります。

 永遠の領域、すなわち精神の世界においては、そして、キルケゴールが言う「神の目から見れば」、存在しないのは社会の方である。存在することが不可能なのは社会の方である。永遠の領域で実存するのは、個人のみである。永遠の領域では、個々の人間が独自の存在である。孤独のうちに、全くの孤独のうちに、隣人もなく、友人もなく、妻や子もなく、自らの精神と向き合う。(中略)精神の領域では、個々の人間が始まりであり終わりである。祖先の経験は何1つ役に立たない。個々の人間は、恐ろしい孤独の中で、完全に独自に唯一の存在として、自らと自らの内なる精神以外には、全宇宙に何も存在しないかのように自らと対峙する。

(3)市民としての存在

これも舌足らずな表現で「社会における市民としての生活(存在)」のことでしょう。これも280〜281ページに記載されています。

 時間における実存とは、現世における市民としての実存である。時間における実存として、人間は食べ、飲み、眠る。征服するために、あるいは自らの生命を守るために戦う。子供や社会を育てる。成功し、失敗する。そして、時間における実存として人間は死ぬ。時間における実存としての人間は、死んだ後に何も残らない。 したがって、個人としての人間は、時間における実存としては存在しない。個々の人間は種の一員にすぎず、連綿としてつづく世代の鎖の中の1つの環にすぎない。(中略)時間においては、人間の実存は不可能である。可能なのは、社会の存在だけである。(中略)時間の領域、すなわち社会という領域では、個々の人間は無から始めて終わりを終わりとすることはできない。個々の人間は先人たちから時代の遺産を受け継ぎ、それをごく短い期間担い、後の人たちに引き渡していく。

(4)緊張状態

 以下の283ページの記述から言うと、緊張状態というのは、

 永遠の精神生活と、有限の時間の中での社会市民生活という2つの次元を同時に生きる中で、人は恐怖と震え、恐怖と不安、そして何よりも、死が存在する。死に直面することで、絶望を感じ、緊張状態になるのかな? 

 人間の実存が、永遠における実存と時間における実存との緊張状態においてのみ可能であるということは、人間の実存は、それが不可能な時にのみ可能になるということである。一方の次元における実存のために必要なものが、他方の次元における実存のためには禁じられる。(中略) 人間の実存は、時間と永遠における同時的実存としてのみ可能であるということは、人間は、2つのまったく妥協の余地のない倫理的絶対に押しつぶされた実存としてのみ可能であるということである。ということは、人間の実存は、もしそれが残酷な神々の悪い冗談以上のものであるとするならば、悲劇の実存として始めて可能であるということである。人間の実存は、恐れとおののきの中での実存であり、恐怖と不安の中での実存となる。そして何よりも絶望の実存となる。(同上 283ページより)

まとめますと、

永遠の領域=精神世界では、個人(=自分)のみが意識として存在し続ける。一方で、時間の領域=現世市民生活では、個々の個人(自分)は存在せず、人間という生物種族の一員に過ぎず、社会だけが存在する。この精神世界と市民生活社会とを同時に生きる中で、人は孤独であり、恐怖、不安、そして何よりも、死が存在する。死に直面することで、絶望を感じ、緊張の中にいることとなる。キルケゴールは、そこで「(神への)信仰」によって不可能が可能となるという確信を得られ、時間と永遠が一体となり、生と死が意味を持つという確信に至る、と説いた。

キルケゴールは、もう1つの答えを出す。人間の実存は、絶望の中ではない実存、悲劇の中ではない実存として可能であるとする。彼はそれは信仰における実存として可能であるとする。純粋に社会における実存に関わる用語としての「罪業」の反意語は「徳行」ではない。「信仰」である。(同上 291ページより)

ということで、今日を変えていこう。愛を込めて。


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