おはようございます。今朝も #ドラッカー #365の金言 からスタートしましょう。
本日 #4月28日
テーマは、 #The_Ethics_of_Social_Responsibility (社会的責任の倫理)
#社会的責任と倫理
それでは、本日の金言です。
*訳注 倫理と義務の選択において義務を上位におく理論
ACTION POINT
#これまで行なったカズイストリー的な決定を2つあげてください 。
#振り返って 、#どうすべきだったと考えますか。
本日のテキストは、『すでに起こった未来』Ⅳ部 社会的機関としての企業 7章 企業倫理とは何か>決疑論ー社会的責任の倫理 139~145ページ より。
企業倫理とは何?
決疑論とは?
Wikiでは、こう記されている。
カズイスチカ casuistry とは?
企業倫理(きぎょうりんり、英: business ethics)とは、企業行動とそれを実現する企業内における人間の行動に関して、意思決定の根幹となるもので、自然人の倫理にあたるもの。
ちなみに、「倫理」とは、
コトバンクでは、
決疑論とは、個人が従うべき社会的な道徳規範があり、行なった行動が、その道徳規範に照らして評価し、解決する方法なんだろうと思います。それは企業にも応用できる、ということなんだろうと。
例えば、ゴミを外に撒き散らす。ゴミを片付けること、まちの清潔さを保つべき、という社会的通念がありますから、ゴミを撒き散らす行為は悪ですよ、と評価される、ということなんでしょう。
これを企業倫理に応用するならば、工場から排出される排出ガス、排水に対して、無処理で垂れ流すことは、ゴミを外に撒き散らす行為と同じだから、道徳規範に反しており、悪である。従って、環境保全の法律や政令に従って適切な排出処理を行わなければ営業許可がなされない、という理屈なのかな?
今回の事例で紹介されている談合の事例。GEら重電企業3社が談合(カルテル)したのは、最弱のA社が失注によってA社従業員のレイオフがなされ、それが地域社会に大きなマイナスの影響を与えてしまうので、それを避けるためだったという。
だが、談合はリストラを防ぎ、地域雇用安定を実現するものだから罰するべきではない、とする理は是とされるべきなのだろうか?
企業倫理とはカズイストリー(決疑論)である。(What is business ethics? “It’s casuistry.”)
と言いつつ、
(企業倫理が決疑論ならば、)他の人間から見れば倫理に反する行為でさえ、正当化してしまうためのエグゼクティブの手段として利用されるようになるに違いない。
とはおかしな話と思いますが、続きがあります。
つまりは、こう考えたらいいと思います。
企業倫理は決疑論。企業活動においても、個人が倫理に従って生活するのと同様、企業も特殊・個別の事例に際し、一般的な宗教ないし道徳上の規範=倫理によって活動をおこなうべき。
他の人間から見れば倫理に反する行為でさえ、正当化してしまうためのエグゼクティブの手段として倫理は利用されるべきではない。
経営管理者や専門家に対して、人々が尊敬しないような行動を避けさせ、朝、鏡の中に見たいと思う人物像にふさわしい行動をとることを社会は求めている。
なんだ、当たり前のこと、と考えたらいいんですね。
2001年に発覚した巨額経理不正事件「エンロン事件」などにおいて、企業統治(コーポレートガバナンス)という観点で、企業倫理が問われました。この時は、不正は良くない、不正をただそう、ということで決着したような、そんな覚えがあります。
ところで、2009年以降、米国では、この企業倫理を左派政治団体がハックし、大企業やシリコンバレー企業と取引し、己の政治的心情を拡散しているそうです。人種差別、性差別=悪、とした企業倫理を「WOKEISM」として、ハッキングした活動です。
企業倫理=社会正義を題目に挙げて、人権圧力団体に献金すれば、大企業、シリコンバレー企業たちが金儲けしても非難しない、という取り決めで、一般人の表現の自由など個人の自由を奪っていってもOkにする、という、この新しい「企業倫理」「個人の基本的人権の抑圧」という社会的な問題が生じています。
我が国でも、左翼団体が国連の女性団体?を使って、日経新聞に対して、広告監査に介入させろ、みたいなマッチポンプ的なビジネススキームで脅し始めている現象が明らかになりつつある。
ロシアや中国など全体主義的な流れは、かつての天皇制、独裁主義が親和性やノスタルジーを感じるからか、わが国の行政だけでなく、企業においても今もそれがよかった、と専制的なマネジメント組織を是認するいう経営者や管理者が少なくない。
だが、ドラッカーのマネジメント哲学を学べば、彼が全体主義、専制主義から個人の自由を守ることを主張していたこと、成果を上げる責任あるマネジメントこそ全体主義に代わるものであり、唯一の防衛策である、という主張を無視することはできません。
個人を組織に合わせさせる、のではなく、「個人の強みを組織に取り込み、社会的利益に」が彼のマネジメントの原則なのです。
1933年、ナチスはドラッカーが教壇に立つフランクフルト大学で、全教員を集めて緊急教員会議を招集。このような脅し文句で締め括った。
ここ数年、強制的にも強いられるワクチン接種、マスク着用。経済活動の自粛。教育活動の自粛。。。さらに、ウクライナ戦争。「ロシアが次に狙っているのは北海道」「北海道の全権はロシアにある」との報道。
https://www.zakzak.co.jp/article/20220419-QZFUBTFQQJNRTGHSDMLPNFF2NA/
いまだに、力で攻める次元に留まっている諸外国に対して、わが国は「愛にできることはまだあるよ」と愛で包み込む、なんて言えば、「お花畑」と言われるに違いない。
しかし、英米はじめ多くの友邦国を仲間にして「集団的自衛権」を築けば、他国の侵略の意図を挫くことができるだろう。損得勘定ばかりの国際関係だが、戦後日本は、賄賂的取引を最小限にして、「おもてなし」「愛」「誠実」倫理的に振る舞うことによって五輪やW杯誘致を成功させてきた。集団的自衛権を築くにも「愛」で成し遂げられたら、と信じたい。
かつて中原に、墨子という人が居た。
墨子は、「非攻」という教えを採用していました。防衛のための戦争は否定しないのですが、土木、冶金などの工学技術と優れた人間観察という二面より守城のための技術を磨き、他国に侵攻された城の防衛に自ら参加して成果を挙げたそうです。
現在、私は仙台市に住んでいますが、10年ごとに、震度6強の巨大地震に襲われるわけですが、仙台市のほとんどのエリアでは、地震災害への備えがなされているため、電気・ガス・水道・通信のインフラの回復力は他の都市とは比べものにならないほど強固でレジリエンスなものに思います。
国による国防に加えて、国民自身もこれまでの防災対策に加えて、市民でできる国防を学習し、実践することで、国防能力を高めることもできるでしょう。
ずいぶん、話がずれちゃった?笑 今日を変えていこう。愛を込めて。