全体主義への妥協は許されない。 10月4日 The Right Compromise 正しい妥協

おはようございます。このNOTEは、読むだけで世の中の課題を #ドラッカー #365の金言  を使って、解決できる、そんな知力を鍛える教育エンタメNOTEです。

よろしくです。

#10月4日
#The_Right_Compromise
#正しい妥協

今日のテキストも1966年初版の #経営者の条件  6章 意思決定の原則 247〜249ページより。


経済上の自由を制限したり放棄したりすることで、失業の脅威、不況の危惧または経済的犠牲の危険などを差し当たり、防ぐことができるなら、自由の制限、剥奪も甘んじて受けもしようし、歓迎さえもしよう

「経済人の終わり」 74ページ

 ドイツでは、第一次大戦の巨額の賠償金、そして、世界大恐慌による経済破綻によって、大衆が絶望し、もはや経済活動がそのまま社会にも有益だと考えることをやめました。平等を促進しないから、と、社会主義にも絶望し、ヤケクソの気分、絶望したのです。そして、「光」に飢えた大衆の満足と不満足の自己欺瞞の中で次のような考え方に陥りました。

何かを信じたい。救われたい。と、思うけれど、その時、宗教は救いにならなかった。そこにナチスが待っていた。

「大衆には欲しいものがある。空虚には耐えられない。全体主義がくれるものは、まことに不満足である。しかし他には何ももらえない。してみれば全体主義の他には妥当な回答がないのであろう。全体主義がくれるものが気に入らなければ、それだけに、もらえるもので十分なのだと思い込む自己説得につとめなければならない。自己説得につとめるほど不満が高まるのは必定である。そうしてみれば、この努力は、ますます強められ無ければならない。
 このようにして全体主義の国民は、普段の緊張のなかに生きることになる。大衆はひどく不愉快であり、ひどく失望しており、激しい幻滅を感じている。しかし、幻滅を感じ失望していればこそ、あらんかぎりの力をつくして全体主義の信仰に努めなければならない。今持っているものはただ1つ、これを捨てたらなにが残ろうか。大衆は麻薬常習者のようなものである。毒と知りつつ使い方を増やしていかなければならない。やめるわけにはいかない。」

「経済人の終わり」 218ページ

 1930年代のドイツにおいてナチの全体主義が広がっていく様子が、今のパンデミック禍で起こった新興政党を信じたいと集まった大衆の熱狂や安倍元総理暗殺容疑者の背景にもある新興宗教や陰謀論に救いを求め、信じたいとする大衆の出現とがデジャブの様な共通しているようにも感じています。

 10月に入り、多くの品目で値上げが実行されています。経済的な成功を求めようとする個人を讃える社会よりも、皆が平等に貧困に陥ったところにベーシック・インカムを国家が提供する社会にすればいいのだ、という陰謀論のような考えが広がっています。マスクをつけさせることを強要し、個人の自由を奪う全体主義への不満と戦後体制を作ったGHQ=米国への不満を訴え、政党の党首をカリスマ的に、なんの疑いも抱かずに信仰できる様にすることで、はじめて全体主義が安定します。

 個人の生活をそのような状況に追い込もうとする動きに反対です。


#半切れのパンでもないよりはまし


 何が受け入れやすいかでなく、何が正しいかからスタートしなければならない。誰が正しいかなどは論外である。そもそも何が正しいかを知らなければ、正しい妥協と間違った妥協の区別がつかない。
 妥協には二種類ある。一つは古い諺の「半切れのパンでも、ないよりはまし」であり、もう一つはソロモン王の裁きの「半分の赤ん坊は奪われるよりも悪い」である。前者では、半分は目的を満足させる。パンの目的は食用であり、手にした半切れのパンは食用となる。だが後者では、半分は目的を満足させない。それは命あるものとしての子どもの半分ではない。死骸の半分にすぎない。

(『経営者の条件』)


ナチスが与えるものは極めて不十分なもの=「半切れのパン」でした。
だが、「半切れのパンでも、ないよりはまし」

第一次大戦の巨額な賠償金、そして、世界大恐慌で被った損失によって、破滅的なダメージを被ったドイツ国民は、そう思ったそうです。

ACTION POINT

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