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2月15日 Salvation by Society 社会による救済の終わり

おはようございます。あっという間に、2月も残り14日です。これまでの今月の進捗は順調でしょうか。今日も #ドラッカー #365の金言  からいきましょう。

本日 #2月15日  のテーマは、

#Salvation_by_Society (社会による救済)

#社会による救済の終わり

#社会による救済への信仰が終わった後となっては一人ひとりの人間の責任が主役となってもおかしくない

 信仰としてのマルクス主義の崩壊は、社会による救済という信条の終わりを意味した。それに代わるべきものが何かは不明である。それが現れることを望み祈るだけである。禁欲の忍従に留まるのか。知識社会のニーズに応えようとする在来宗教の復活か。アメリカで成長中の大教会か。あるいはイスラムの原理主義か。原理主義を信奉するイスラム世界の若者も、四〇年前ならばマルクス主義になっていたかもしれない人たちである。あるいは、まったく新しい種類の宗教か。
 いずれにせよ、救済、復活、成長、善、徳が、社会的な目標や政治的な処方としてではなく、人間の実在にかかわるものとして求められるようになる。少なくとも社会による救済の信仰が終わった後となっては、内面への回帰が始まる。個としての人間が中心となる。さらには、一人ひとりの人間の責任への回帰さえ生まれるかもしれない。少なくともわれわれは、そのように望むことはできる。(『ポスト資本主義社会』)

ACTION POINT 

#あなたの面倒を見るのは#人事部ではなくあなた自身です

#自らの強みを見つけ 、  #自らの期待に応え、 #自らをマネジメントしてください

#何によって貢献するかを常に考えてください

今日のテキストは、「ポスト資本主義社会」>序章 歴史の転換期>国民国家を超えて>「社会による救済」という信仰(1993年版、39〜40ページ)から。

今日のテキストの前段部分をご紹介しましょう。

 フランス革命以降、社会による救済が、支配的な信仰となっていった。(中略)社会による救済は、いかに反宗教を装おうとも、宗教的信念である。その手段は、もちろん世俗的である。禁酒、全ユダヤ人の抹殺、精神分析の万能化、私有財産の廃止である。(中略)100年以上にわたって、社会による救済を約束する最も強力かつ蔓延を極めた世俗的宗教が、マルクス主義だった。(中略)最も魅力的だったのはマルクス主義が約束した地上の楽園だった。(同書、37〜39ページ)

 つまり、社会による救済とは「信仰」であり、マルクス主義も信仰であったし、その信仰も天安門事変(1989年)、ベルリンの壁崩壊(1989年)、ソ連解体崩壊(1991年)と共に幻であることが明らかとなったことで、表舞台から消えました。マルクス主義の象徴国家であるソ連という信仰を失ったリベラルは存在感を失いました。

しかし、中共があるじゃないか、北朝鮮も、キューバも、ミャンマーのあるじゃないか、BLMがあるじゃないか、公益資本主義があるじゃないか、ジェンダー問題は重要だ、などとマルクス主義に新たなパッケージを施し、信仰を続けさせようと試みられてきましたが、わが国ではそれは仮染めのことだったのだ、と本当に実感を持って感じられたのが、この感染症騒動であり、現在のように思います。

 きみまろさんではありませんが、あれから30年、声高に、政府を批判する人が大衆から喝采を浴びた時代は終わりました。それは、総理記者会見で、質問と称し、実際は己の主張を演説していた女性新聞記者が失墜し、昨年の総選挙で立憲民主党が惨敗し、その象徴的な女性代議士が落選し、ジェンダー論を振りかざし、自分は高級タワーマンションに暮らし、若い世代には貧困を望む女性教授が支持を失ったことからも明らかです。

 彼らは公助=社会による救済を訴えてきました。しかし、公助は現役世代や若年世代への負担増となるばかりで、負担から逃れようとする高齢者層らに厳しい目が向けられ始めています。

 自由には決断と責任が伴う、とは自助のことであり、「産業人の未来」で記されたことですが、社会による救済=公助への支持が下がりつつある中、目を逸らさせるように、戦争危機が煽られています。

 自助も努力は報われず、共助・公助にも頼れない。私たちはこれからの社会で、どう生きていこうか。

迷うな、行けばわかるさ、とは一休禅師の言葉であり、燃える闘魂、アントニオ猪木の言葉です。今日を変えていこう。楽しくいこう。愛を込めて。



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