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6月28日 経済発展の目的 Economic Progress and Social Ends

おはようございます。

#経済発展の目的 #Economic_Progress_and_Social_Ends

#ドラッカー #365の金言 #6月28日  

#経済発展はそれ自体が目的ではない
#人間の目的達成のための手段にすぎない

このNoteは、「ドラッカー365の金言」に記された1日1テーマに対して、自分の感想や想い、そして、私自身の実践について書いたNOTEです。本文そのものを全て引用することはありませんので、ドラッカー博士の論文をお読みになりたい方はぜひ本書をご購入されることをお勧めします。

https://amzn.to/3sucDVe

“汝の時間を知れ“ ドラッカー


上記は本書の扉の次のページに記されていたメッセージです。これは「時間は無限ではないから集中せよ」という意味かも知れません。ドラッカーの65年以上にわたる著作集を読み続けるほどの時間がない方のために、本書がある、という意味かも知れませんね。

編者のマチャレロ教授は

“最後にACTION POINTとして取るべき行動を示唆した。ここでお願いしたいことは、読者ご自身が「すでに起こった未来」を探すことである。新たなトレンドを見出したならば、ドラッカー学校の伝統に従い、自ら行動していただきたい。“

と記して、本書を実践する書、として欲しいと述べています。

著作権等の関係から、日々のドラッカー論文(つまり、本書の本文)を全文引用することはしませんので、ご関心の方はぜひお手元にお持ちになることをお勧めします。

今日のACTION POINT
#経済的な発展を求める過程において一人ひとりの人間の成長をはかってください

経済の拡大や増加はそれ自体が目的ではない。社会的目的を達成するための手段としてのみ意味がある。この目的を達成することが約束されている限り、それは非常に望ましいものである。

社会的目的を達成するための手段として、経済発展、経済増加、儲けの拡大、個人の利益の増大がある。ドラッカーのいう社会的目的とは、

経済発展が自由で平等な社会における個人の自由と平等を促進するとの信条

の達成である。

しかし、ここ最近の経済発展は、必ずしもそうではないし、金儲けに対するわが国の長年の嫌悪、拒否感、清貧を喜ぶ?尊ぶ?文化とはなんだろう?農村を歩くと共産主義と「9条教」に農村が毒され過ぎていることに気づく。金持ちと貧乏、都会と農村。江戸の昔から飢餓と戦い、貧しさと格闘してきた東北。田舎。昔は田舎が富んでいて、都会は貧乏人の集まり、というところだった。それは、長男は田舎に残り、都会に出てった次男、三男に仕送りしていた、という歴史からわかる。いつの間にか、都会と田舎のイメージは逆転し、都会は自由と豊かさの象徴、クール。だが、保守的な田舎はつまらない、都会に出てこい、という国家の労働力集めにメディアも乗っかりその影響もあったのだろう。戦後80年の高齢化社会も、若者の給料を下げたままにして、デフレにしておけば、高齢者は食べていける、と物価は抑えられたまま、気づいたら、ゼロ成長・マイナス成長の30年間、日本は経済的な地位から転落しつつあり、隣国からの侵略に怯える国に成り下がっている。

毛沢東は、「国民全員を等しく貧しくさせておけばいい」と言ったという。これこそ共産主義の本音である。それを忠実に実行しているのか?

社会的目的は、「等しく貧しく」ではなく「等しく幸せ」であるべきだ。

今日もこちらも購読してお幸せに。やっていきましょう。


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