ここ数日間考えていること
令和4年7月13日
生きがい、使命をもって働くことを誇りとしているのに。多忙な業務と人間関係の辛さにぶち当たる。精神的に追い詰められているというのに、その責任は自分で学ぶしかないと個人の努力と突き放される。休暇を始め労働環境は改善せず、慢性的な人員不足で業務量の負担は変わらない。
それに見合った給与も保証されていない。仕事や生活の場に搾取が溢れ、医療、福祉、教育もその矛盾に取り込まれてしまう。
そんなところからの政治改革への希望が参議院選挙にあったはずであったが残念な結果。正しいと思うことがマイノリティになっているのが現実。
自分や周りの人達が幸せになるためには、どんなことをすればいいか、選挙でどう変えてゆくことができるか少しは情報をたどればわかってくるはずだという文脈はどうしても通らない。
今の世の中、矛盾のある社会でいいのかという問いかけに対して、人はやはり属している組織の意向に従わざるを得ないだろうし、ましては自分の1票が世の中を変えることはできないというあきらめもあるだろう。人は疲れ切って、希望する、改革するという意識にまで至っていない。
メディアをうまく取り込むというのも思い知った。テレビやネット、SNSの情報というのはこんなにも人を取り込んでしまうものだとは、良識があれば話を聞くだろうという希望はメディアの流す、大きな声にこんなにももろく崩れてしまう。
また今回のことが起こるまでは、保守政党の支持をゆるぎないものにする力が他にもあるとはあまり意識していなかった。
「アベさんに対する銃撃について思うこと」という小出裕章氏の文章がある。(2022年7月9日)
多分。意思半ばにして光となった人物は将来において、その偉業が称えられるのだと思う。
戦争は、人々を悲惨のどん底に落とすだろう。死者も多く出るだろう。それでも生き残った者が評価することがすべてになるのだと思う。歴史は大多数勢力が持つ力によって未来に評価されるだろうなと思った。
そして今回浮彫になった。統一教会(世界平和統一家庭連合)の存在。
現実におかれている苦痛、精神的な病、DV、トラウマ、虐待、それからの救済、希望、信念、信条から誰しも信仰というものを持っていると感じている。
その気持ちをある団体は取り込んでしまう。その搾取行為でさえも、政治と癒着することで団体の安全を確保しているという構造。
絶望しかないのだろうか?心ある人間にとって未来に希望はあるのだろうか?対話には何がなし得るか思いながら、ふと吉本孝明氏の「共同幻想」という言葉が浮かべている。
少なくとも悲しみを感じつつ今考えている自分がある。考えることが今できることであり、充分な時間が与えられているという幸せがある。どんな未来があるのだろうか。