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欠乏から必要が生じ行為によって埋められない苦しみの連鎖


まずはじめに

今回は、「非アートマンとの相互付託」という非アートマンをアートマンとし、または、アートマンを非アートマンであると誤って認識してしまう「無智さ」からどのようにして「行為」とその「結果」について苦しむのかについてご一緒に考えてみましょう。

必要というマーヤー(幻力)

十六節
アートマンは行為の主体である、という観念は、身体はアートマンである、という観念に基づいているから、誤りである。「私は何もしない」という観念は真実であり、正しい知識根拠に由来している。

ウパデーシャ・サーハスリー1.12.16

ブラーフマンもしくはアートマン(真我)には「欠乏」という考えが無い。したがって、「欠乏」を補うための「必要」が生じることが無い。

しかし、上記のシャンカラ師の教説によれば、身体をアートマンであるとする誤りの観念に基づいて私たちは行為しているとしている。このことをシャンカラ師は「無智」だと述べているのだ。

アートマンは、「平安」や「喜び」を得るために「行為」という「必要」が無いのであるが、私たちは、「欠乏」による「必要」のための「行為」によって、その「結果」からかりそめの「平安」や「喜び」を得ることはあっても、アートマンのようなものとは比べようもないことが想像できる。

そして、「欠乏」という「考え」とは、何を暗示しているのかを考えるとき、自分は今の状態とは何らかの形で異なった状態に居る方がマシだということになっています。

このことは、シャンカラの教説によれば、以下のように、「A」は「B」ではない、つまり、「A」というアートマンは「B」という「私」という観念もしくは自我意識ではないという智慧によって「B」を消滅しない限り、「苦しみ」の連鎖は継続すると言える。

一節
AはBとなることは出来ないから、AはBであると考えるべきではない。なぜならAがBとなる場合には、Aが消滅することは確実であるから。

ウパデーシャ・サーハスリー1.15.1

「A」が「B」となる誤りが起こり「A」が消滅させたようなマーヤー(幻力)に欺かれるまでは、何も欠けてはいなかった。「必要」というものはまったく存在していなかったと言えます。

私たちが自ら自分自身から奪ったときにのみに「必要」というマーヤーに欺かれる。そして、私たちは、自分で細かく細分化して定めた「必要」の「序列」にしたがって「行動」し、その「結果」に一喜一憂することになるのだ。

このマーヤーに欺かれることは、自分が何であるかについての知覚を歪めることとなっています。

最後に

今回の内容で正しく知覚することの障害は何かということを考える機会になれば嬉しいです。

マーヤーと苦しみについては引き続きご一緒に考えられたらと思っています。

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