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新たな善悪の業(カルマ)を蓄積しないことを願う貴方の為へ


まずはじめに

ようやく、インド最大の哲学者にして聖者と言われるシャンカラ師が著した『ウパデーシャ・サハスリー』の最後におさめられている散文篇第三章「パリサンキヤーナ念想」に触れるまでにたどり着きました。

112節
この[要点を反復する]パリサンキヤーナ念想は、解脱を求め、すでに得られた善悪の業を滅することに専念し、新たな[善悪の業]が蓄積しないことを願っている人びとのために、説かれるのである。

『ウパデーシャ・サハスリー』2.3.112

この節に書かれている重要なポイントは三つです。まず、【解脱を求めていること】、【すでに得られた善悪の業を滅することに専念していること】そして、【新たな善悪の業が蓄積しないことを願っていること】になるのは明らかです。

続けてこの“note”を読むよりも、圧倒的に初見の方が多いようなので、少しこれから説明させて下さい。

【解脱を求めていること】とは、広い意味では、縛るものを離れて自由になることで、悩みや迷いなど 煩悩 ぼんのう の束縛から解き放たれて、自由の境地に到達することになりますが、ここでは、死んで生まれ変わる輪廻転生から脱して創造主である神(ブラフマン)とアートマン(真我)が一如に回帰することを意味しています。

【すでに得られた善悪の業を滅することに専念していること】とは、ごく簡単にいうならば、善い悪いとする過去の判断による残存印象(サムスカーラ)から否応なく行動へと自動的に動機づけられるような種を瞑想において刈り取る作業や、残存印象から誤って作り出された状況に対しての反応にてこれ以上新たな種を生み出さないように育ってしまった茎を刈り取ることを意味しています。

以上のことは、優秀な師の元で学んでいるならば、すでにご指導なされて実践されておられることと思いますが、今回は【新たな善悪の業が蓄積しないことを願っていること】について、ご一緒に考えていきたいと思っています。

「貪欲」と「嫌悪」がなぜ欠点なのか?

112節
[貪欲と嫌悪という]欠点の原因は無明であり、言語活動・心的活動・身体活動の原因は[貪欲と嫌悪という]欠点である。

これらの活動から、望ましい果報をもたらす業、望ましくない果報をもたらす業、あるいは両者の入り混じった果報をもたらす業が蓄積される。

それゆえに、それらの業から解脱を[達成する]ために、[このパリサンキヤーナ念想が説かれる]。

『ウパデーシャ・サハスリー』2.3.112

パリサンキヤーナ念想は、師が弟子を悟らせる方法として、解脱を願い、この教えを信頼し、求める人びとのために、どのように教えるのかを説明したものなので、「貪欲」と「嫌悪」という欠点の原因は無明だとして、なぜ、欠点なのかについては述べられていません。

これは聖典を学習していると「あるある」なのですが、聖典を引用してこのように書かれているから真実だとして終わりということになっています。『ウパデーシャ・サハスリー』の中でもシャンカラ師はそのように述べられています。

現代人であり日本人である私たちにとって、と言いますか…私にとっては、それで信頼しなさいでは動機づけが薄いような気がしてなりませんし

また、欧米人の書かれた書物は、“A”だから“D”として間が飛んでいるものがあって、行間を読んでいるのですが、読みながらも“A”の次は“B”で“C”はこうだろうとして想像力を働かせているのですが、皆様はどうでしょうか?

ということで、「貪欲」と「嫌悪」がなぜ欠点なのかについて考えてみましょう。

まず、サムスカーラと呼ばれている残存印象を、私たちはどのような状況においても、心素(チッタ)を呼ばれている記憶袋に蓄積させています。そして、その印象によって、善悪の業(行為)が自動反応として生じることが避けられません。

例えば、幼い頃にお金で苦労した家庭で育ったとします。その子はお金に関して「貪欲」を残存印象に蓄積させたとします。その「貪欲」は成人してから自動的に強い動機づけとなり、働いてそこそこのお金持ちにはなったのですが、長い間に大切に抱き続けた「貪欲」はそれでは満足することはなかったようです。不動産バブルに踊らされたあげくに無一文となり、お金目当てで結婚した女性にも見放されてしまうということになってもなお、心の中の乾いた「貪欲」は燃えさかっていました。

「嫌悪」については、例えば、幼い頃に酒癖が悪く母親に暴力を振るうことも辞さない父親をもつ女の子がその父親に対して、男性に対して、度重なる暴力に結びつけて「嫌悪」を残存印象に蓄積させたとします。その「嫌悪」は成人してからどのような男性に関しても抱くようになり、つまり、どの男性でも暴力を振るうとして親密な関係になることを自動的に拒むようになったようです。年老いてもなお、その男性に関しての「嫌悪」はおさまることなくこのままで人生を終えることに関してはまるっきり無関心でさえいました。

「貪欲」と「嫌悪」に関しての例はいろいろと挙げることができますが、より重要なことは、それらの印象は蓄積されてより強まることと、すなわち、強まるような行為もしくは状況に関する自動反応で強化することもできるし、または、意識的に弱めることやその業を滅することができるという点になります。

ヴェーダンダ的に言えば、「貪欲」と「嫌悪」という欠点の原因が無明であるとするのは、アートマン(真我)を自我とする肉体と誤った付託がなされていることであり、つまり、ブラーフマン=アートマンであれば、「貪欲」と「嫌悪」という欠点が起きようが無いということで、智慧が無いことで原因が無明であるとしています。

【新たな善悪の業が蓄積しないことを願っていること】ならば、あらゆる人びととの関わりや状況において、「貪欲」と「嫌悪」という欠点として生み出されるファースト・インプレッション(最初の印象)がカギになるだろうということになります。

と言いますのは、「貪欲」と「嫌悪」という欠点を生み出すきっかけとなる反応の繰り返しが残存印象(サムスカーラ)として蓄積され、その種から行為(カルマ:業)が生まれ、その果報としての苦しみとなっているのならば

まず、悪循環を生じさせる最初の反応を止めることなのですが、これは、さまざまな人びととの関わりや状況を対象として、「私」とする自我が「貪欲」と「嫌悪」という反応として結びつくことを拒否することが必須となります。

実際に、次回に紹介する「パリサンキヤーナ念想」を実践してみるとよくわかりますが、さすがに、シャンカラ師の教えを実践し教師となって弟子に教えるレベルの実践法でもあるので、かなり高度で難易度の高い技法です。

なぜならば、私たちの肉体の目は、外向きで、無明とする誤った付託をしたままに知覚した対象についての誤った印象を、アンタッカラーナ(内的心理器官)において、マナス(意思)が伝達し、私のものとして結びつかせる我執(アハムカーラ)が結合した記憶を、心素(チッタ)に残存印象(サムスカーラ)として蓄積させ、その残存印象を新たに知覚する人物や状況に上書きして、自動的に善悪の業で反応してしまうからです。

【すでに得られた善悪の業を滅することに専念していること】とは、すでに、自動反応化した善悪の業の種となっている心素の残存印象を瞑想において滅する技術を習得している、もしくは、善悪の業として自動反応化することにマナスを用いて意志の力で止める技術となります。

【新たな善悪の業が蓄積しないことを願っていること】とは、これ以上の善悪の業として自動反応を止めることを願うということでもあり、そのための念想技法が「パリサンキヤーナ念想」となります。

「貪欲」と「嫌悪」の対象が問題となっている

誰かや状況に遭遇するとき、「貪欲」もしくは「嫌悪」の対象となるならば、その対象に対して、なぜ「貪欲」や「嫌悪」を抱くのかをゆったりとした時間をとって瞑想にて調べることで、善悪の業となる残存印象の種子を滅することができることを蛇足かもしれませんが追加しておきます。(すでにお気づきとは思いますが)

ネイティ・ネイティ・ブラフマンの実践法

ここまで読み進めると、「パリサンキヤーナ念想」は、ネイティ・ネイティ・ブラフマン、つまり、「これではない、これではない」として、タマネギの皮をむくように真実ならざるものとの結びつきを拒否する具体的は技法だと分かるかもしれません。

最後に

実は、この「パリサンキヤーナ念想」の前に、散文篇第一章の「弟子を悟らせる方法」として、師と弟子の想定問答が扱われていて、その問答を引用してご一緒に考えられたらなと思っていたのですが

なかなかに難解で…

分かりやすく“note”にまとめることができそうもないままに今の今まで放置していたのが現状でした。

今回の内的心理器官と自動反応化する善悪の業(カルマ)の仕組みが理解できると、少しは次回の「パリサンキヤーナ念想」を実践できるかなと思いで、思い切ってまとめたのが今回でした!


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