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混迷に陥る変幻自在な世界を作り出すマーヤー(幻力)から自由になるとき


まずはじめに

ヴェーダーンダ哲学を語る上で欠かせない初代シャンカラ(アーディ・シャンカラ・アーチャーリヤ)が書いたとされる(学者さん方の間では真作であることに疑いはない)『ウパデーシャ・サーハスリーUPADESASAHASRI』から引用して、「マーヤー(幻力)」が作り出す「現象世界」の中においても寂静でいることの意味について、ご一緒に考えてみたいと思います。

シャンカラ師について

シャンカラ師(700年 - 750年)は、不二一元論ヴェーダーンタ哲学を唱えたインド最大の哲学者と讃えられる人物となります。

その教えは、近現代インドにおける聖者やヨーガ行者のほとんどに何らかの影響を与えている人物としても知られています。

インドにおいて大きな社会的影響力を持つシャンカラ派の開祖と見なされ、聖者シャンカラ・アーチャーリヤ(シャンカラ師)として尊敬をあつめています。

また、シャンカラ・アーチャーリヤは、シャンカラ師が創設したという僧院の法主の尊称でもあります。シャンカラ師は、東のプリー、西のドワールカ、南のシュリンゲーリ、北のバドリーナートに僧院を創設したと伝えられ、カルナータカ州のシュリンゲーリ僧院がシャンカラ派の総本山となります。

シャンカラ師は、シュリンゲーリ僧院に母神シャーラダーを祀ったと伝えられ、法院の宗主は伝統的に、世師(ジャガッド・グル、”世界の師”の意)とも呼ばれてきました。

初代のシャンカラ師は「最初のシャンカラ師」(アーディ・シャンカラ・アーチャーリヤ)と呼ばれ、後代のシャンカラ・アーチャーリヤと区別されてきたのですが、著作は混同され、区別がつかなくなったものも多いとのことです。

多様で動的な変幻自在に現象化する世界を作るマーヤー(幻力)について

■マーヤーについて

マーヤー(māyā)について、ブリタニカ国際大百科事典の小項目事典によれば以下となるようです。

神の不思議な霊力または欺きを意味するサンスクリット語。のちには非真実,幻,迷妄,魔術使いの幻力などの意にもなり,インドのある種の哲学者たちは宇宙のあり方を説いて好んでこれを用いた。ベーダーンタ哲学,特にシャンカラの学系によれば,人が真実と思っている現実の世界は無明に基づくもの,つまりマーヤーのようなものであり,われわれの生きている世界は虚妄であるという。

神が用いる神の力・神秘的な力や欺きを意味することには反論がありますが、今回については、マーヤーによって欺かれているとして意味づけたいと思います。

■なぜ、世人である私たちは混迷に陥るのか?

そのマーヤー(=幻力)という種子は、ただ一つであるが、順番に、繰り返し、三様に[現れると]知られるべきである。アートマンは不変であるとはいえ、マーヤーをもっているために、水に[映る]太陽のように、さまざまに「知られる」。

ウパデーシャ・サーハスリー散文篇1.26

ここで、アートマンつまり真我は、不変ではあるけれども、間違って、マーヤーという幻力という魔術をもってしまったことで、本当は実在しない太陽が水に映っているのを太陽であるとして誤認してしまっていることを指摘しています。

しかも、このマーヤーは、ただ一つの種子であっても、順番にかつ繰り返されることで三様に顕現しているかのように欺くものだと教えています。

[アートマンは]行為することなくして、一切をなし、清浄である。佇立しながら、走り去るものを超えていく。マーヤー(=幻力)によって全能であるから、不生でありながら、多様である、と考えられる。

ウパデーシャ・サーハスリー散文篇17.78

はじめの韻文は、アートマンは、行為することなくても一切を為したが如く幸せであり、お風呂で洗うことなくても清浄である、もしくは、何を為したとしても心を清浄に保つことができる。また、佇立(ちょりつ)という難しい言葉がありますが、すなわち、その場に立ち止まったままでも、走り去るものをも超えていくという喩えになります。

このアートマンが幻力をもつことは、全能であり、本来のアートマンは不生であって、その幻力の魔術は多様に生きたり死んだり、また、多様に万物において動的に変化し実態をもたぬままに現象化している。

君が寂静になったとき、差別観は存在しない。その差別観のために、マーヤー(幻力)によって、世人は混迷に陥る。なぜなら、[差別の]認識は、マーヤーが生じる原因であるから。[差別の]認識から自由になるとき、何人にもマーヤーは存在しない。

ウパデーシャ・サーハスリー散文篇19.5

この散文に至るまでにシャンカラ師は、さまざまなアプローチからの教説を順番に繰り返しているのは、そもそも、マーヤーという幻力が千差万別に働いているからなのですが…

ですので、いきなり、吹っ飛ばして寂静になれと言われても戸惑うかもですけれど、マーヤーによって多様で動的で変化する現象世界を肉体の目は外向きなので、それらを追いかけざるを得ない状況となり、かつ、それら一つひとつを見て差別して認識することで選択することになっています。

シャンカラ師が指摘するように、この状況において、私たち世人は、あーでもないこうでもないと混迷に陥るのは避けることができません。

ヴェーダーンダ哲学において、「差別観」ではなく「平等観」によって、心は安らかに静かになると言われているのは、マーヤーという幻力によって、多様で動的で変化する現象世界に肉体の目を通して心が結びつくことで混迷に陥っていることで理解できると思います。

ココからのことを詳しく述べるならば、アンタッカラーナという内的心理器官について説明する必要が起きてしまうのですが、これは聖典学習などの自助努力や素晴らしい先生に指導していただくことに譲ります。

シャンカラ師が言わんとしていることは、差別観から生じる差別の認識から自由になるためには、肉体の目で外向きの状態から少しずつ時間をとって、心の眼にてアートマン(真我)に集中して結びつく訓練を継続して行っていきなさい、ということではないでしょうか?

そうすることで、マーヤーという幻力で作り出した幻の幸福感や喜びそして愛情といった「まぼろし」から依存することなく自由になっていくのが体験できると思いますし、少しずつそういった体験をさまざまな形で繰り返すことで複雑にまとわりついて絡まった幻力から逃れることができると思います。

最後に

流行の「多様性」や「持続可能性」という言葉が何を意味しているのかについて、少し考える機会になっていただければ嬉しいです。

また、それらの言葉はあくまでも流行であって、もてはやされる内は華であっても、すぐに、変化して消え去っていくという「マーヤー」でもあるのでは?と想う今日この頃です。

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