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誰もが神様を内在している

まずはじめに

今回は、「誰もが神様を内在している」というテーマで解説するといういわば無謀とも言えるチャレンジでとなります。と言いますのは、なぜ、そのように知覚することができないのか?という疑問が生じることになるからです。

しかし、これこそが『ブラフマ・スートラ』を引用してシャンカラ師が教えたい内容でもあるので避けることができないのです。

因中有果論

因中有果論について調べてみると、 原因の中から結果が生まれる 因中有果論は、古代インドのサーンキャ哲学派の特徴的な考え方となり、 因中有果論の基本は「世界に現れる全ての事象は、すべて原因の中に含まれている」という考え方だとしています。

■万物に内在するものが神様

バーダラーナヤナ著『ブラフマ・スートラ』をシャンカラ師が解説したものを以下に引用します。

〈表題7 内在者〉
20節
(万物に)内在するものが神様(プルシャ)であり、この神様の性質に関しては既に教示してきている。

『ブラフマ・スートラ』第一篇第一章

太陽に内在し、眼に内在する者がプルシャ(神様)ご自身である。転生する個我ではない。

『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』第一篇第六章第七節

「神様の性質に関しては既に教示して…」ということですが、このことに関しては、ウパニシャッドに書かれているひとつの例として、シャンカラ師は『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』は引用しています。

「太陽に内在し、眼に内在する者がプルシャ(神様)ご自身である」と書かれていることは、「因中有果論」のことを示しています。この「因中有果論」をごく簡単に言いますと、原因という因の中に既に結果という果が内在しているという考え方となります。

今回のトップの画像にあるひまわりの花と種を例にすれば、「種の中に花が内在する」というように、ひまわりの中に花が既に咲いているのであって、誰かがひまわりの花を観た時には必ずその花が咲く前には種が存在したということがわかります。

他には、私たちが山を観た時に、眼に山が映るわけですが、それは山に太陽の光が当たって眼の中に山が入ってきたからこそ見えることになります。秋に山を観る時に、「紅葉の季節だと彩りがある山だ」とか、冬に観る富士山は、「美しい富士山を観るなら冬が一番だ」などなどのように、そのような意識が眼に入ってくる。

また、太陽を観た時に、「まぶしい」という思いが出てくるのも、『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』に述べられているように、プルシャという神様が内在している、つまり、神様が内在している原因となっているし、眼に神様が内在しているからこそ、私たちの意識にさまざまな思いが出てくるという、「因中有果論」を説明しています。

この『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』を引用して、シャンカラ師は、だから、「万物に内在するものが神様(プルシャ)である」としています。しかしながら、それらを観察する真我ではなく転生する個我と結びついている限りは、意識に入ってくることはない、ということなのです。

■神様が万物すべての原因ならば…

「因中有果論」は、インドの哲学やヨーガの考え方だけのものだけではなく、現代科学において、結果から原因を探っていくことにもなりますし、医学だと、不調の症状という結果から病気の原因を診察することからすると、私たちにとってもごく身近なものになります。

しかし、そうだとすると、「万物の原因は神様」という考えにはうなずけないことごとがたくさん散見されることについてはどうだろうか?という疑問や反論が出てくるのだと思います。

先生にそのことをぶつけるものならば、「それはあなたが無智だから」で終わってしまいます。しかし、そこで終わってしまえば、真の意味での「誰もが神様を内在している」ことがわからないまま、つまり、無智さのままで転生する個我として死んでから振り出しに戻ることになってしまいます。

『ブラフマ・スートラ』は、論理聖典であり論理的な思考にて絶対者ブラーフマンを考えるための聖典ですが、もちろん無駄にはなりませんけども最終的には思考を超えた感性にて捉えるしかないと言えます。その準備にあたっての思考と感性を鍛えるための技術としてヨーガが古代より師から弟子へと伝えられています。

「誰もが神様を内在している」そのものとして知覚していない内は、先生からのお答えそのものである「それはあなたが無智だから」という事実を受け止めて、ヨーガにまた新たに励むことの繰り返しになると思います。

ただし、「誰もが神様を内在している」を仮説として、ヨーガに励むならばになります。この仮説を検証する意欲があるのかないのかで継続への道は分かれると思います。

この仮説の検証をヨーガの技術に求めるのならば、私の経験上言えることは、常に、「誰もが神様を内在している」ということには及びませんが、チラチラッとそうとしか思えない意識が出てくることはお約束できます。

最後に

読み終えた後に、「なーんだ、結局、答はないんだ」とがっかりした方もいらっしゃるかもしれませんが、文章を読んで到達するものではないことでもあるので、是非、最終的には、「誰もが神様を内在している」ことが常となれるように励んでいきましょう。



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