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中南米移民生活事情 貧困から脱出する者たち。SUSHICHEF雑記

ラテン系の違法移民達。
彼らにとってはまさに大金を密輸業者コヨーテに支払ってのち、運が良ければ待望のアメリカ入国となる。
大半の者は、すでに来ている親類、知人などを頼りにすぐに仕事を始める。

移民達の未来は最終的に二つに分かれる。
ここアメリカに合法または非合法に居残って根を広げていくもの。
もう一方は必要なだけ稼いで、自国に帰るものたち。

彼らが勤労可能な職種は、違法ということもあり限られている。
3kなどといった言葉が日本にはある。
きつい、きたない、きけん、だったと思う。
彼ら違法移民達の仕事も似たり寄ったりで、
アメリカで生まれ育った連中がやりたがらない仕事が多い。
カリフォルニアでよく知られているのは、イチゴの収穫などの農業系が多いと思う。
かがんで、一日中じゅうイチゴを摘んでいくのだ。
ちょっと自分なんかは一日で根をあげると思うぐらいきつい。


都市部ではレストランの清掃、皿洗い、オフィスの清掃など、その他単純労働、土木作業員などだったが、最近では事情が少し変わってきた。

塗装業などの親方になって自分のビジネスを始めるもの。
レストランでも皿洗いから始めて料理長にまで出世するなど、社会的にもしっかりと自分達の居場所を築いてきている。
ここベイエリアでは、一日のうちにスパニッシュを聞かない日はないぐらい、ラテン移民は各所に広がっている。

しかも彼らは、その仕事の質を問わなければ、とてもよく働く。
仕事を二つ掛け持ちするなどは珍しくない。
それも片方はパートなどではなく、両方がフルタイムでの仕事。
自分が現在いる職場でも、仕事の掛け持ちは普通にみんなやっている。

朝6時出勤でここを午後の2時半に終えた後、次の職場で夜の12時近くまで働く。
中には仕事を3つ掛け持ちという強者もいる。
夜の仕事を終えた後、午前2時近くまでオフィス、レストラン清掃などの仕事を働きぬく。


この日課で一体どのくらい体が持つのだろうと思っていたら、今の職場の同僚がつい最近までそのハードスケジュールを4年やっていたと教えてくれた。

朝は7時から土木作業、夕方4時から日本街のレストランで皿洗い、11時頃にそこを出て午前2時頃までオフィス清掃員だったらしいが尋常でない。
無茶苦茶やせたと言っていたが、よく死ななかったものだ。

決まった額の現金が手に入ったら、帰国することを計画して来た移民達も、こういったハードな働き方で、短期にかなりの額の財を稼ぐ。
昔、一緒に働いていたルイスの兄、彼の友人のヤエルなどはその典型だと思う。
ルイスの兄、ここサンフランシスコにきてすぐにカブトという、韓国系の
鮨レストランに下働きで入り込んだ。
給料は安いが、彼は徹底してお金を使わなかった。
2LDKほどの大きさの部屋に、十人ほどで住み、食事はレストランのまかない飯。バスなども後ろの方から無賃で乗り、その他生活に必要なもの以外は一切買わない。


1年で30000ドル(3百万円ほど)をためて、メキシコに帰ることになった。
その頃にはスシレストランでのほとんどの仕事を覚えて、店にはなくてはならない存在となっていた。

仕事をやめてメキシコにかえるとオーナーに言うと、是非残るようにと泣いて懇願されたそうだ。
彼は現在、自分の雑貨店を地元で経営して、年下の若い女性と一緒になり楽しくやっているらしい。


年若いヤエルの場合はもっとしっかりしていた。
自分が彼に会った時はまだ21歳だったが、
金銭に対する感覚は倍近く年上の自分よりしっかりしていた。
17歳でサンフランシスコに来て、彼より先に渡米していた父親と一緒に暮らし始め、アメリカに着いたその週に働き始めた。

3つ仕事を掛け持ち、1日約18時間ほどを働き続けるという毎日。
死ぬほどきつかったらしいが、なんとか6ヶ月ほどして40000ドルを貯蓄した。
もちろん父親が家賃その他を出していたというのもあるだろうが、大したものだと思う。

しかし彼はルイスの兄と違い、ただ現金をためただけではなかった。
まず10000ドル(100万円ほど)を払い、タクシードライバーの権利とタクシーを買った。
メキシコでタクシーを運転するには(ここアメリカでも同じだが)ライセンスのようなものが必要になる。
そうやって手に入れたタクシーを、人を雇って運転させる。
自分が働いて稼ぐには限界があるが、経営者となれば作り出すことのできる富は格段に増える。
20歳そこそこで、高度な教育も受けずに育っていても、方法さえ知っていれば経済的成功者としての道を歩いて行けるのだ。

自分が会った時はすでにタクシーを2台、家を2件持っていた。
そこからの収入で月に3000ドルほどになるらしかったが、それでも彼は二つの仕事を働くことをやめなかった。
塗装業で3年以上の経験があるヤエルは親方のようなことをやっていて、自分が直接施工するのではなく、人材を現場に派遣するということをやっていた。
夜はその当時、自分が働いていたレストランのキッチンで下ごしらえなどをする。
いつも笑顔だった明るい性格の彼は、26歳でメキシコに帰りリタイアで毎日楽しく暮らしていると、ヤエルと同時期に働いていた、グアテマラの部下が教えてくれた。

正規の、といっても違法就労だが、そんなきつくて稼げない仕事よりも、
手っ取り早い方法で現金を手にするものもいる。
ドラッグトラフィッカー、違法薬物の運送。
日本風にいえば、やくの運び人。

メキシコ経由でアメリカに入ってくる違法薬物の量は、信じられないほど多く、危ない橋を渡る気さえあれば、仕事には事欠かない。

過去にも何人かメキシコのカルテルで働いていたという連中に会った。
シナロアカルテルの為に働いたと教えてくれた一人は、法機関につかまり、4年間州刑務所に入っていたといった。

最近は少なくなったが、目尻に涙の入れ墨を入れていたラテン移民とも働いたことがある。
涙の数1つにつき人1人を殺害しているというのが、この入れ墨の意味だ。
過去の悪行を忘れようとすっかり更生して、コックとして働いていた、
メキシコ北部出身の彼は、自分が会った時はレーザーで入れ墨を消すことの出来る場所を探しているとのことだった。
犯罪組織だけでなく、一般にもその入れ墨の意味が知れてきて、見た目にも良くないからというわけだった。
アメリカは本当にいろいろな人間がいるなあと思い知らされた。


映画のような場面を目撃したのは数年前だった。
中の良かった、サルバドール出身の若いコックと久しぶりに会った。
彼は仕事はしっかりとやるのだが、あまりにも遅刻、無断欠勤などが多かったため、仕事を首になってしまったのだ。

あれからどうして暮らしているのか?との自分の問いかけへの彼の答えは
あまり好ましくないものだった。
コンサートなどのイベントで、コカイン、エクスタシー、などのドラックを売りさばいているらしかった。
結構な稼ぎになるという。
一回のイベントで2,3時間ほどで4000から5000ドルになる。
特に危ないことはなく簡単に荒稼ぎできるので、この”しごと”が気に入っているといった彼はまだ21歳だった。

それから半年後に彼と以外な再開を果たした。
夕方の4時頃だったか、自分は夜のシフトの為にバスで職場に向かっていた。
MARKET street と GOUGH street のところでバスが止まった。
こんなところでなんで止まるんだ、と思って外を見るとパトカーが数台集まっていた。
まさに捕り物の真っ最中だったのだ。

ストリートには二人の人間がうつ伏せになって、両手を頭の後ろで組んでいた。
どうやらこの二人を捕まえるために、えらく物騒なことになっていたのだった。
犯人らしき人物の真横で私服の刑事だろうか?が諸手でホールドしたピストルの銃口を、伏せている連中の後頭部に向けていつでも撃てる姿勢で立っていた。
アメリカの刑事は半端じゃないなと思った。

バスが少しずつ動き出した。
徐行しつつ、捕り物の横をゆっくりと通り過ぎる。
うつ伏せの人物の横顔がバスの中からも見えた。


なんだあいつじゃないか!
それはつい半年前にドラックトラフィックは特に危なくないと言った
サルバドールの元コックだった。


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